▶ 2011年5月号 目次
ジャーナリストにもとめられる科学リテラシー
佐久間 憲一
福島原発事故にかんする報道を追いながら当初から感じていたある種の違和感がある。それをひとことで表現するなら「サイエンス・リテラシーの欠如」ということになるだろうか。報道に携わる記者やキャスターたちに科学や技術に対する基本的な知識・教養がほとんどないようなのだ。そのため、正確さを欠いた分析や誤解を垂れ流し、いきおい情緒的な発言に終始するといった事態を招いてしまうことになった。
たとえば、原発といえども発電所の基本的なメカニズムは変わらない。火力発電と同じで、水を熱した蒸気でタービンを回転させる。その熱源が石油や石炭の燃焼なのかウランの核分裂なのかというちがいだ。タービンは膨大に巻かれたコイルの中で磁石が回転することによって電流が発生する、19世紀に発見された電磁誘導という原理にしたがっている。タービンを回転させる動力が重力であれば水力発電に、風であれば風力発電ということになり、発電量はタービンの大きさや磁石の回転の速度に依存する。
原発の燃料となる酸化ウランの核分裂反応を放置しておけばいずれは暴走し、融点の2800度まで達することになり、その前に、燃料を収めているジルコニウム化合物の管は1200度で水素と反応し溶け始める。そういった「高熱」をいかにコントロールするかが原発のシステムの要である。そして、その稼働の課程で生成される放射性物質を系内に閉じ込めなくてはならないというシリアスな問題も抱えている。
だから、地震のような災害時にはECCS(Emergency Core Cooling System)が働き原発の運転を停止し、燃料棒の崩壊熱を阻止する。しかし、福島原発ではそのECCSが作動するための電源が津波により破壊・壊滅され、あろうことか、バックアップ用の電源も破壊されてしまったわけだ。これは、原発というシステムがかかえている問題というよりも、福島原発全体の設計の「失敗」というべき問題ではなかろうか。現に女川原発では非常用電源が作動し未然に事故を防いでいる。
こういった、冷静な評価と分析を踏まえた上でのフェアな議論の必要性は放射能についてもいえることだ。たしかに、この間、放射能と放射線のちがいといった知識についてはずいぶんと一般化されたことは事実だろう。けれど、放射線の基礎的な理解については十分な啓蒙がなされていないように思われる。
それぞれの重量はα線>β線>γ線の順である。そのため、物質への透過能力はγ線>β線>α線の逆の順となり、α線は紙一枚で遮ることができるが、β線はアルミニウム板、γ線ではコンクリート版でなければ遮ることができない。つまり、ウランから放射されるα線は、衣服で覆われた身体外部(皮膚)へ被爆することはない。
しかし、α線を放出する放射性物質(空気中のチリや水滴)を体内に吸い込んだときにはかえってやっかいなことになるのだ。セシウムやヨウ素から放出されるβ線についても同様なことがいえ、体内への吸収が危険であり、取り込まれたときの細胞(DNA)に与えるダメージの範囲がα線より広いといういことが分かると思う。
また、放射線を被曝することによって生じる身体的な影響についても「確定的影響」と「確率的影響」といった二つの概念の明晰な解説もあまりされていない。前者は、ある一定量の放射線を被曝することによって急性的に生じる、脱毛・白内障・皮膚の損傷・造血器障害・受胎能の減退といった影響で閾(しきい)値が存在する。一方、後者は、低い放射線量によって後発的に、集団の中で確率的に予想される発がんや遺伝的障害で、閾値といったものを仮定していない。この二つの概念を腑分けせず混同した議論が、不思議とまかり通っていたように思うのだ。
いずれにしても、科学的な知識をもって説明すれば正当に理解されるもにかかわらず、情報を発する側にそのリテラシーが備わっていない。この事実はもっと深刻に受け止めるべきであろう。それは、最近とみに引用される機会のある寺田寅彦の警句「ものをこわがらな過ぎたり、こわがり過ぎたりするのはやさしいが、 正当にこわがることはなかなかむつかしい」が端的に示していることでもある。
(佐久間 憲一・牧野出版社長)