▶ 2011年6月号 目次
市民の視点と記者教育
島津敏雄
一線を退いた記者仲間が集まって、記者の育て方、新人記者教育などに話題が及んだ時、反省を込めてこんな話が出ることがある。
「記者たちは、どうして“いい話”が書けないんだろう。なぜデスクは書かせないのか。」
私がこれを強く感じるようになったのは、5年ほど前に報道の現場を離れてからだ。取材相手ではなく、さまざま分野の人たちと名刺を交わすようになって、次のような言葉を何人もからぶつけられた。
「世の中を暗くしているのはマスコミですよ。」
「もっと私たちが欲しがっている、明るい面を報道してください。」
反論したくなる一方、こうした意見がこれほど多いのかと随分考えさせられた。
ジャーナリストの池上彰氏は、昨年の全国の刑法犯罪まとめを扱った大手各紙の記事を例に、「ひったくりワースト1は○○市」「わいせつ事件は増加」といった見出しばかりで、「殺人事件が戦後最少に」という見出しはみられない。どうしてニュースの明るい面を見ないで、暗い部分ばかりにスポットを当てるのかと辛口に論評していたが、共感したのは私ばかりではないように思う。
“いい話”をひとことで表現するのは難しいが、読者や視聴者が前向きの気持ちを持てるもの、元気が出るもの、その目線で書いた記事ではないか。
今回の東日本大震災を見てみたい。紙面やニュースを見ると、現場の記者たちの頑張りで、確かに被災者の悲惨な状況が痛いほど伝わってきた。しかし、当の被災者にどれだけ役立つ情報なのだろうかという思いが拭えなかった。
現役の記者時代、災害取材を続ける中で、「もう新聞は読みたくない、ニュースを見たくない」という被災者に多く出会ってきた。
被災地以外の人たちの関心に応える、いわゆる“劇場災害”を報道してしまっているのではないだろうか。地震発生からずいぶん長い間、「想定外」「未曾有」を自ら濫発し、深刻な事態が進行する中で傍観者的な批判を続けたマスコミを、被災地の人たちはどう受け止めたのだろうか。
少し脇道にそれるがこんな経験がある。ラジオの報道部門を担当していた時、新潟県中越地震が起きた。休みなく災害報道を続ける中、応援にきていた音楽番組担当のプロデューサーが「合間に音楽を入れてみませんか」と提案した。
まだ音楽はそぐわないのではないか。不安はあったが彼に任せてみた。
静かなクラシックかと思っていたら、流れてきたのは平原綾香の「ジュピター」や坂本九の「上を向いて歩こう」、一世を風靡したレッツゴーヤングの元気な歌だった。
報道現場では不評だったが、被災地からの反響は大きかった。避難所から歌のリクエストが相次いでいるという。
今でこそ、災害時のこうした歌の力は多くが認めるところだが、当時はなかなか思いつかない発想だった。報道に携わる者だけで報道していては何か間違う。そう感じたのを覚えている。
地方支局に赴任した記者は、まず警察を担当し、次は行政や経済・・・。
先輩記者からは、少し斜に構え、まず批判的にものを見る教えを受ける。
金太郎あめのように画一的な育成を受け、同じような経験を重ねてきた各世代の記者が政治部・経済部・社会部などの集団社会を形成し、限られた人脈のなかで紙面やニュースを作り続けていく。
今回の震災で、被災地に入った取材スタッフから話を聞くと、やはり「被災地」と「それ以外の場所」、「現場」と「本社」との“温度差”をさまざまな場面で感じ、これまでの自分の立ち位置はどうだったのか考えることがあったという。若い人は、この感覚を大切にしてほしい。知らず知らずのうちに、警察や検察、役所や企業、学者や専門家と同じ目線、同じ立ち位置にいないか。
そうならないためにも、若いころから市井の人たちとも積極的に接してほしい。
新人記者の担当は警察からでないといけないの?いろいろなスタートがあってもいいのでは?と思う。
変えよう変えようといって、いつまでも変わらないのがマスコミだ。実は一番保守的とも言える。大変だろうが育成も多様化させ、中堅記者も随時、社内外のほかの職場を経験させることなどを通じて、複眼的な見方、より市民に近い視線を育てていかなければないと思う。
不正や不条理を厳しく指摘することはジャーナリズムの原点だ。
情報取材が記者の基本であり、“ネタに強い”記者を育成することは当然と思う。
だが一方で、良い点は褒め、小さなことでもいいから人々の元気につながる、市民と共通の目線で書いた記事が、もっともっと増えてほしいと思うのだが。
島津敏雄(元NHK記者 1976年卒業)