▶ 2011年7月号 目次

アラビア語翻訳事はじめ②アラビア語の翻訳

堀口睦年


 ○アラビア語のみならず翻訳会社にとって翻訳者は宝であり、会社の財産でもある。つまり、如何に良質の翻訳者を獲得するかにかかっている。良き翻訳者とは人間性は勿論だが、何よりもその扱う商品に対する幅広い商品知識が問われる。正則アラビア語と呼ばれる格調高い標準語的なアラビア語はある。しかし、商品に添付する取扱説明書では、極言すればその地方の方言がベストであろう。IBM は当時自社のアラブ向け製品にサウジ・クエート等の湾岸向け、イラク・シリア向けとマグレブ(モロッコ方面)向けに3種類の地域性を配慮したアラビア語で取扱説明書を用意したそうである。
 ○ロガータとしては最終的には電算写植を目標にしていたが、アラブやヨーロッパの事情は全く、雲をつかむようであったし、まだまだ、ヨーロッパ製の優れた電算写植機など買える経済的なゆとりもなかった。ペルシャ語文字パターンの入手に成功し、母型を製作、また、後に優れた鋳造技術を持った鋳造職人に巡り会えたお陰で、兎に角アラビア語印刷のスタートが切れたことになる。
 ○アラビア語翻訳が専門とはいえ、当然イランもオイルショック時には翻訳需要はあったが、量的にはアラビア語の比ではなかった。イランの言葉、つまりペルシャ語は主にイラン、アフガニスタンで使われ、日本の外務省はアフガニスタンのペルシャ語を正式のペルシャ語として認定していたようだが、イラン人に言わせると「アフガニスタンのペルシャ語(ダリー語)は田舎臭い」、それだけアフガニスタンのペルシャ語が古典的ということだったのだろう。当時日本外務省のペルシャ語講師もイラン人ではなく、アフガニスタン人であった。
 ○ある中東の非産油国のアラブ人ビジネスマンの話で、初めて日本に赴任した時驚いたことがあったそうだ。JR 新橋駅の出札窓口で切符を買うべく、並んでいたら、前の人が「ちゃりん」と小銭を落としたそうだ。すると、そばにいた子供が素早く拾い「ハイ、落ちました」といって差し出したそうである。「自国では考えられない。多分、拾ったら、さっと走り去ってしまうだろう」とのことであった。国民性というか、わが福沢先生の著書である1867年(慶応3年)に出版された、『西洋旅案内(上巻)』中のロンドンまでの船旅案内中でも「印度海飛脚船立寄る場所」として 「上海・香港・サイゴン……スエズ……パリス……ロンドン」のスエズの項で、『人気ハ甚だよろしからず旅人通行のとき用心すべし』と警告されている。現在もこの気性は変わらないのだろうか?