▶ 2011年8月号 目次

アラビア語翻訳事はじめ③バブル時代とアラビア語翻訳

堀口 睦年


こちらは会員サイト内の「綱町三田会アーカイブス」コーナーに掲載されている原稿です。
アーカイブスは、時代の大きな流れの中に埋もれて、その人しか知らない出来事や、話さずにいた経験を後世に伝え残してゆくコーナーです


 当時はアラビア語専門と看板を掲げていた翻訳会社は殆ど皆無だった。1979年(昭和54年)第2次Oil Shock が起こるやアラビア語の翻訳、写植は急速にその需要が増大し始めた。1部上場企業などに出入りしていた大手翻訳会社からも、大量の翻訳が飛び込むようになって来た。このような翻訳会社の営業社員の中には、とても対応しきれないので、紹介するから客先と直接取引してくれないかと持ちかける者も現れた。

 当方にとっては願っても無い話だ。英語を始めヨーロッパ言語などのLatin 文字の世界か、せいぜいロシア語のCyrillic までなら何とか扱えても、アラビア文字になると拒否反応が出るのかもしれない。こちらは夢に迄アラビア語の出る世界に住んでいるのだ。また一方、「良く判りもしない言語を看板にするなあ」と云いつつ丸投げしてくれる翻訳会社の外注担当者もいた。従って当時は仕事を求めて営業に出るということは皆無であった。

 この後いよいよ Mac 時代に入る。Windows はまだ対応するDTP(編集・組版)ソフトが少なく、DTPはデザイナー達が愛用する Macintosh でということになった。しかしロガータでは、まだMacを本格的に使い切れなかった。主な客先が未だDTPのグローバルでの運用方針が定まっていなかったことによる。この見通しを誤り、先んじた設備投資から、後日、客先のMac への正式採用決定によって、data変換がスムーズにいかず、遂に日ならずして倒産の憂き目に遭った著名な翻訳印刷業者もあった。先行投資の失敗である。Mac データーと直接の互換性がなかったカナダ製の高価な電算機であった。

 客先の方針は全世界的なレベルで、data仕様を統一し、必要時に即時dataの修正変更を可能にし、出力などは少しでもコストの安い地域、例えばスペイン、マレーシアでと、世界の何処でも出力可能な仕様を目標にしていた。アラビア語フォントなどは、Mac に決定される際は、客先から何かと相談を受けたが、フォントはLinotype社製で、またDTPソフトはAldus PageMaker アラビア語版、後にAdobeのInDesign Middle East版などと、ロガータ使用中のものに決定されたのは幸運であった。これらのソフトは,日本では購入出来ないため、米国やフランスのAdobe 代理店、Morisawa-Linotypeなどから購入したものである。