▶ 2011年9月号 目次
アラビア語翻訳事はじめ④ペルシャ語翻訳での失敗
堀口 睦年
こちらは会員サイト内の「綱町三田会アーカイブス」コーナーに掲載されている原稿です。
アーカイブスは、時代の大きな流れの中に埋もれて、その人しか知らない出来事や、話さずにいた経験を後世に伝え残してゆくコーナーです
ペルシャ語翻訳ではホメイニ氏のイスラム革命時、丁度、ペルシャ語の翻訳者が一時帰国中で、適当な翻訳者が見当たらず、止もう得ず東京外大ペルシャ語専攻卒業後10年余の人物に翻訳を依頼したが、翻訳が未熟だったことは間違いなく、マニュアル納品後、イラン現地からご丁寧にその誤りを指摘したクレイムが届けられ、その修正入りの訳文とともに自分を使えとの宣伝文までが現地からクライアントの東京の本社に届けられ、非常に恥ずかしい思いをしたことがある。
つまり、現地で正しいものが正解で、ヨーロッパ言語と違い、まだそれを日本でチェック出来るような体制になかったということである。その後、正規の翻訳者がイランから帰日後、念のためチェックしてもらったところ、客先に対し「細かい言い訳をしないで100%降参した方が良い」と忠告され、以後翻訳者の選定にどれほど神経を尖らせたか知れない。したがって信頼出来る翻訳者との付き合いは10年、20年と続くことになる。
技術的に進んだ日本からの輸出品マニュアルで使われる用語等で輸入先の現地には未だ対応する部品名や呼称名が無いこともしきりで、それらを翻訳者が作りながら翻訳するということも珍しいことではなかった。そういう理由で先に該当とされた訳語が正しい訳語とされた時代であった。
6月号で述べたペルシャ語モノタイプを引取りに来たイラン人の研修生は講習を終え機械と共に帰国する際、この機械の数本のネジのスペアを両手に一杯も欲しがったということであった。理由はイランでは未だ簡単なネジも満足に作れないからというのが、その理由であった。当時はそれ程技術の格差があったのだろう。思えば近代化という点で、江戸から昭和にかけて日本で100 年かかった技術革新を、当時のパーレビー国王は25年程で近代化しようとした無理がイラン革命へと繋がりホメイニさんの登場となったのだろうか。
アラブ随一の大国であるエジプトは流石で、Ahram新聞社もそれは立派な社屋だった。社長室の隣、紹介されていた女性の秘書室長に面会、敬意を表した後、若い男性社員が社内を案内してくれた。当時既に新聞,雑誌は殆どコンピュータ化されていたが、停電に備えて鉛活字の設備も同時進行だった。活字鋳造室では鋳造機の釜の鉛が溶ける臭いで気がついた。暑い鋳造室の床でごろりと横になって休む3〜4人の体格の立派なそして真っ黒な肌の鋳造工は異様な光景であった。作業環境の悪い部門では南部のヌビアの人なのか、他の部門ではそんなに黒い肌の人は見かけなかった。
停電といえば日本でも戦後の昭和26年ころ「停電日」というのがあったのを業界紙(印刷界 1995年8月)で知ったが、今知る人はあまりいないだろう。今回の大地震・津波被害による節電の呼びかけだけではなく、1日中停電の「停電日」を設けたら日本の社会はどうなるだろう。
(堀口 睦年 株式会社ロガータ会長 1954年卒)