▶ 2011年10月号 目次
アラビア語翻訳事はじめ⑤独立記念日とクエート
堀口 睦年
こちらは会員サイト内の「綱町三田会アーカイブス」コーナーに掲載されている原稿です。
アーカイブスは、時代の大きな流れの中に埋もれて、その人しか知らない出来事や、話さずにいた経験を後世に伝え残してゆくコーナーです
アラビア語の講習会で出会った新しい友人からの誘いで、クエートの独立記念日にお祝いに行こうということになった。アラビア語を習い始めた頃のことで何年頃だったか定かでないが、多分1975年か1976年の2月25日の建国記念日だったと思う。お祝いだから先方も断るまい、と踏んでのことだ。まず、電話帳でクエート大使館に電話をかけた。電話帳によると港区三田とあり、塾から5分の近距離だった。電話に出た日本人に「アラビア語を勉強している日本人だが、独立記念日の祝賀会に参加したい」と告げると少し経ってから、名前、住所、勤務先、所属など聞かれた。調査の上返事するとのことだった。石油危機のとき、アラブ連盟はイスラエルと何らかの関係ある企業や個人のアラブへの入国は禁止とし、大使館もビザ等の発給も厳しく管理していた。ロガータと自分がアラブのブラックリストに名前が載っているか、調査したのだ。1週間後、待望の招待状が郵送されてきた。
いよいよアラブ世界との直接の接触で、それも個人で、誰の紹介も無く、未知のアラブ世界に入ったと、ある種高揚した気分になったのを思い出す。
独立記念日当日のパーティーは何処だったか思い出せないが、確か大使館内で行われたと記憶している。当日参加した人々は、やはり商社やメーカーの社員が多かった。まさにオイルに群がる蟻のごとく「石油に浮かぶ国」と称されたクエートのご機嫌取りに狂奔する人々の群れのごとくであった。
余り派手なパーティー等出席したことのない自分は、何処で誰に対してどのように挨拶してよいか全く見当がつかなかった。会場に入って、まず目についたのは、やはりサウブと称するアラビア風の衣服を纏った多数のイスラム教徒が目立った。誰彼無しに「Congratulations !」の連発であった。
アラブが厳しい禁酒国であること、妻を4人まで持てる、盗みを働いた者は手首を切断される、という程度のことは予備知識としてあった。しかし、パーティーで見たものはまさにアラブ商人のしたたかな生き様であった。それは、まず、大使ご夫妻が衝立ての前に並んで立たれ、招待客は一列縦隊に並び、ご馳走を頂く前に、順番にご挨拶を申し上げる。「Congratulations !」と力を込めて声高に叫ぶ。
そこはアルコールを提供しているカウンターで、寿司屋等があったコーナーからはかなり離れた反対側の場所だった。何よりも大使ご夫妻からは横の衝立て1枚で酒カウンターは見えないという建前になっていることだ。酒飲みの多い日本人社会と付合うアラブのというよりはクエートの実利的な構図が丸見えでタテマエとホンネがコインの表裏のようだった。
それからは、いくつかのアラブの独立記念日にお祝いにというよりご馳走にありつくために出かけた。リビアなどは禁酒が厳しいためか、全くアルコールは出なかったし、いくら美味しい鶏肉料理でも水割り無しの、オレンジジュースでは喉の通りは大変悪い。
また、酒といえばクエート入国時、税関でむき出しの一升瓶2本を取り上げられていた日本人旅行者がいたが、大胆というか、無知というか、無神経さには驚いた。一方、クエートのレストランでは、ウイスキーのボトルをテーブルの下、両足で挟んで隠し、一杯やりながらの夕食には、大丈夫なのかと冷や汗をかきながら心配だった。クエート市では予定どうり AL-Watan 新聞社を訪れ、ここで初めてアラビア語のモノタイプを見た。
当時のクエートでは若者たちが大はしゃぎで町中を車で乗り回していた。オイルショックで慌てふためく我々とは異なり、オイルで潤い、潤沢なディナールの恩恵を受け、浮かれに浮かれていた若者達であり、砂漠に連なる色とりどりの建築中の無数の家々にも正直度肝を抜かれたのも記憶に残っている。また、一歩イラクに入った途端、反対に強く暗いイメージに包まれたのも事実だ。クエートのような底抜けに明るい若者たちの雰囲気は皆無だったし、フセイン政権下での暗い時代だったのだろう。非常に強い緊張感を味わった記憶がある。
(堀口 睦年 株式会社ロガータ会長 1954年卒)