▶ 2011年11月号 目次
「パンデミック・フルー」を忘れるな
木村良一
のっけから拙著の話で恐れ入るが、3年ほど前に書き下ろした小説『パンデミック・フルー襲来』(扶桑社新書)の中に主人公の新聞記者の坂本亮太が、感染症に詳しい医師の佐久間恭助の研究所を訪ね、新型インフルエンザについて説明を受ける場面がある。
〈いよいよ話が佳境に入ってきたようだった。亮太が「ブタの中で新型ウイルスが生まれるという話はよく分かりましたが、その新型は何が問題なのでしょう」と尋ねると、佐久間が「よくぞ、聞いてくれた。そこが肝心なんだ」と声を高めた。
「新型インフルエンザウイルスは、もとは鳥インフルエンザでありながら人に感染する性質を持つ。しかし、人類はこれまでにこの新型に感染したことが全くない」
「そうだと、どうなるのでしょうか」
「感染の経験がないということは、その新型に対して人類が抵抗力、つまり免疫力を持っていないということになる。言い換えれば、新型は人から人へと次から次に感染していく。しかもそのウイルスが強毒だとしたらどうなる」
「多くの人が感染死してしまう」。そう言って亮太は思わず息を呑んだ〉
脅すつもりはまったくないが、亮太と佐久間のこのやり取りを読むだけでも、新型インフルエンザの脅威を理解していただけると思う。しかも本書は私が実際に取材で得た感染症の知識をベースに書き進めたので、フィクションとはいえ、インフルエンザに対する記述は科学的で客観的だ。
次にタイトルの「パンデミック」だが、これは感染症の大流行を示す用語だ。これにインフルエンザの略の「フルー」が付くと、文字どおりインフルエンザの世界的大流行の意味となる。2009(平成21)年3月末からメキシコやアメリカではやり出したブタ由来の新型インフルエンザが、あっと言う間に世界中に拡大し、6月1日にはWHO(世界保健機関)が警戒レベルを最高のフェーズ6に引き上げたあの状態がまさにパンデミックだ。
ブタ由来の新型インフルエンザのウイルスタイプはH1N1で、かつて流行したことがあり、一部の高齢者は多少の免疫を持っていたと考えられている。毒性も弱かった。それゆえ医療水準が高く、タミフルなどの抗ウイルス薬が楽に手に入る日本では深刻な被害は少なかった。
だからといって「新型なんて怖くない」とか、「一度発生したからもう発生しない」と侮ってはならないし、パンデミックを忘れてはならない。
もともとH5N1ウイルスは、中国南部で発生し、それがタイやインドネシアなどの東南アジアに広がり、さらに世界中に拡大している。毒性の強い新型インフルエンザに変異する危険性は以前から指摘されていた。感染症の専門家の間では「世界のどこかでいつ、H5N1の新型インフルエンザが発生してもおかしくない。導火線に火がついた状態だ」と警戒されてきた。
日本では昨年末から今春にかけて鳥インフルエンザH5N1の発生が過去最多で、全国の多くの養鶏場で被害が出た。ウイルス学者は「シベリアで営巣するカモの間でH5N1ウイルスの感染が広まっているからだろう。ウイルスがシベリアの凍土や湖沼の中で定着しつつあるのかもしれない」と推測するが、これは何を意味するのか。
これまで鳥インフルエンザは、中国や東南アジアでウイルスに感染したカモが春先にシベリアへ帰る途中に日本に持ち込む「南ルート」が問題になってきた。ところがこの南ルートに加え、秋から冬にかけてシベリアから日本に渡ってくる「北ルート」が、新たに指摘されるようになった。つまり渡り鳥のカモによってシベリアからウイルスが日本に持ち込まれているのだ。シベリアにウイルスが蔓延してくると、毎年のように日本の養鶏場で被害が続く深刻な事態となる可能性がある。
WHOや厚生労働省の推計によれば、H5N1のような強毒の新型インフルエンザが発生すると、世界で7400万人が感染死する。日本国内でも17万人から64万人が命を落とす。
『パンデミック・フルー襲来』では最後に〈国民ひとりひとりが新型インフルエンザの脅威を正確に認識して冷静に行動することが何よりも大切だ〉と結んだ。前述したように世界は2009年にブタ由来の新型インフルエンザのパンデミックを経験している。この経験を忘れずに生かし、ワクチン製造や治療薬備蓄など新型インフルエンザ対策を練り直しておく必要がある。
(産経新聞論説委員 木村良一)