▶ 2011年11月号 目次

アラビア語翻訳事はじめ⑥最終回 アラブの友人

堀口 睦年


こちらは会員サイト内の「綱町三田会アーカイブス」コーナーに掲載されている原稿です。
アーカイブスは、時代の大きな流れの中に埋もれて、その人しか知らない出来事や、話さずにいた経験を後世に伝え残してゆくコーナーです


 その名はサーレ・スレイマンと言った。もともとはイラクの出身だったが、人口希薄なサウジアラビアがアラブ人人口を増やすための帰化政策でサウジ国籍を取ったのだそうだ。紹介されて知り合ったのは1975年(昭和50年)頃であったと思う。大学生であったが、とにかく日本語が達者で、若い留学生ほどそうであるように、特に話すことは勿論、読み書きも舌を巻くほど達者であった。付き合い始めた目的はアラビア語会話のレッスンであったが、数年の付き合いで、ついに一度もレッスンを受けたことはなかったし、寿司屋へはよく出かけ酒もよく飲んだ。しかしアラブ人の気性・習慣を理解する上で少なからず役立った。

 当然のことながら会社としても、個人的にも可成り深い付き合いがあった。オイルショックの頃の一般の日本人はサウジアラビア人と言えば、皆オイル成金と勘違いしがちだったが、実態は一般のサウジ人としてはさほど裕福でもなく一律に富豪扱いされてはと困惑していた。ただ体を使って働くことは余り好まなかったようだ。しかし、相互理解は言葉からと、互いの文化を理解する重要性は認識があり、1979 年(昭和54年)250 ページ程の「会話とガイド」との書名で日本語・アラビア語の会話集を出版するのに協力した。

 そのわずか40年前アメリカの掘削会社に飲料水用の井戸掘削を依頼したところ、出てきたのは砂漠に欲しい飲料水ではなく、石油だったという話は余りにも有名な話である。また、ファイサル国王が暗殺された時も、悲しみに打ちひしがれていると思いきや、「彼ら王家には跡継ぎは数えきれない程の王子たちがいるので、心配ないよ」と澄ましていたのは、アラブに齎されたオイルとイスラムの多妻習慣のお陰かと、一寸した驚きだった。

 またクエートの研修生とも気があった付き合いをした。週に1度は彼のマンションに会話を習いに通った。彼も何回か自宅へも遊びにきたが、魚はまなガツオが好きで、よく馴染みの魚屋へ出かけ焼いて食べた。アラブ人が魚を食べても不思議はないが、当初砂漠と魚という取り合わせはどうもぴったり来なかったのだ。当時のアラブへの認識はこの程度であった。酒も飲まず、まずは、真面目なイスラム教徒といったところだった。彼からは帰国に際して聖コーラン以外の宗教的装具品一式を贈られ、現在も大事に飾ってある。ただ、アラブ世界をあまり理解していなかった日本のうら若い一人の女性を妻としてクエートへ連れ帰ったが、数年後にこの女性は帰国したそうである。2人目の妻とは知らなかったという話を人伝てに聞いた。また、イラクのクエート侵攻後の彼のニュースは届かない。