▶ 2011年12月号 目次
いま、改めて戦後を思う -貧しかったけれど幸福だったー①学童集団疎開
恩地 日出夫
こんどの震災の時、廃墟になった被災地のテレビ映像を見ながら、ぼくは東京大空襲の直後、父と2人で、疎開の荷物をリヤカーに乗せて、世田谷の自宅から上野駅まで歩いて往復した時のことを想い出していた。
小学校6年、12歳だった。
道玄坂で休憩しながら「あれが上野の森だ。あそこまで行くぞ」と言われて眺めた景色
――坂の下に渋谷駅が見え、その先は地平線まで皇居以外はずっと焼跡で、点々と残る焼けビルの中の国会議事堂の特徴ある形が記憶に残っている。
そして、くり返し映し出される今回のテレビ映像につけられたコメントは、「戦後の廃墟から立ち上がった日本なのだから大丈夫です」というものだった。
本当にそうなのだろうか?
あの時の日本人はいまの日本人ではない。
例えば、いまの日本人は、ケニアからやって来たノーベル平和賞のワンガリ・マータイさんに指摘されるまで「モッタイナイ」という言葉を忘れてしまっていた。
豊かになった日本人は、貧しかった時にもっていた大切なものを、いつのまにか失ってしまったのではないか?
そんなことを考えながら、僕自身の戦後の「あの時代」を少し丁寧にふりかえってみたいと思う。
敗戦の丁度1年前の8月、ぼくは親許をはなれて長野県の飯田市に集団疎開した。
集団疎開というのは、空襲にそなえて、都市の小学3年生以上が、学校単位で地方に移動するというものだが、配給される食糧が充分でなく、「とにかく腹がへった」というのが想い出のすべてといっていい。
ある日の夕食は、ドンブリにみそ汁。中には小麦粉をかためた「水とん」というダンゴが5個。それだけである。
弁当の梅干しの種は、デザート代りに味がなくなるまでしゃぶって、最後は歯で割って中の実を食べた。
さて、ここに1枚の写真が残っている。
セピア色に変色しているが、ぼくが分宿した西教寺という寺の裏庭で、6年生21人が先生たちとうつっている。
「先生たち」というのは、学校の先生が男女1人づつ、寮母さんが2人、食事をつくってくれたオバサンが4人。女性は学校の先生以外は、全員キチンと和服を着て写っている。みんな地元の人たちだが、現代風に言うとボランティアだったのではないかと思う。
先生2人はとうきょうからのつづきだから慣れていただろうが、始めて子供たちに接したこの6人の女性たちは本当に大変だったと思う。
写真の軍国少年少女は、最上級生としてゲートルやモンペ姿で緊張しているが、表情をみると完全に子供である。
下級生の中には、オネショをする子もいたし、親が恋しくなって、鉄道の線路づたいに歩いて東京に帰ろうとして、夜中に脱走する子もいた。
イジメもあればケンカもある。
上級生の悪ガキは、軒先に干してある柿を盗む。ぼくも栗林に盗みに入って、見つかって怒鳴られ、逃げるはずみに有刺鉄線でケガをしたことを憶えている。
それでも寮母さんや賄いのオバサンに叱られた記憶はない。きっと、はじめて預かった子供たちを、大切に、大切に守ってくれたのだと思う。地域の人たちも、シラミだらけの子供たちの下着を養蚕のマユを蒸気で蒸す大釜で消毒してくれたりした。
こんな人びとの親切を想い出すにつけても、今回の震災の後、京都の大文字焼きに送られて来た被災地の松を放射能を気にして送り返したり、瓦礫の受入れを渋ったりしているいまの日本人は、一体どうなってしまったんだろう? と思う。
それはさておき、6年生だったぼくは、翌年3月卒業のために帰京。3日後に東京大空襲に立会うことになる。
夜空に無数の焼夷弾がキラキラと光りながら降って来たあの時、死の恐怖を感じたという記憶はない。小学校で、天皇陛下のために戦死することだけを教えこまれていた12歳には、死を実感する感性が欠落していたのだろうか?
頭上に真上から降って来た焼夷弾は風に流されて都心方向にずれ、現在の環状7号線の外側にあったわが家は焼け残り、内側にあった小学校は全焼した。そして、この稿トップのリヤカーのシーンにつながるのだが、小学校の卒業式も中学校の入学試験もなしで、大混乱の中、再度の大空襲の噂に追われるように東京脱出、原爆投下、そして敗戦ということとなる。
恩地 日出夫(1955年卒 映画監督)
=写真は、集団疎開の記念。前列右から6人目が筆者