▶ 2012年1月号 目次
いま、改めて戦後を思う -貧しかったけど幸福だった-
②電気・ガス・水道なしの生活
映画監督 恩地日出夫
空襲、敗戦とつづいた年の9月、ぼくは中学1年の2学期を県立山形中学(旧制)でむかえた。東京は、復員軍人やら引き揚げ者であふれて食糧が不足。焼け残った家には、転入制限で帰れなかった。
たどりつきたのは、山形出身の母の親類の農家。ここで、ぼくの戦後がスタートした。サラリーマンの父は単身赴任。母と弟妹の4人に与えられたのは「オクラ」と呼ばれていた土蔵で、母屋に隣接した白壁の蔵ではなく、荒壁がむき出しの穀物倉庫として使われていた建物だった。
分厚い板戸をガラガラと開けると黒光りする床が10畳ほど。窓はなく、床にゴザ、そこに親子4人布団を敷いて寝る。
電気、ガス、水道、全部ナシ。トイレは外の農作業用を使い、庭の小川で食器を洗うという生活だった。
こう書いてくるとイメージとして悲惨で暗い生活がうかぶかもしれないが、戦争中の集団疎開の生活にくらべると、母親が一緒だということが、なんとも温かいものだった。
そして、20歳になる前には、天皇陛下のために戦死すると信じていたのに、「ずっと生きていていいんだよ!」と突然言われて、安堵感でもないし、解放感とも違う。なんとなくボンヤリした気分だった。
最近、こんな文章に出会った。
「銃弾が飛び交う紛争地で生きる人々は何かを自分で選ぶことが出来ない。停戦合意や和平合意が結ばれ戦闘状態がおさまると、誰かがいきなり命をうばわれる確率はぐっと下がる。取りあえず生きていくことができるという選択肢が生まれる。」(“職業は武装解除” 瀬谷ルミ子著 朝日新聞社刊)
あの頃のぼくは客観的には、こんな状況におかれていたのだろうか?
山形中学への通学は、土蔵のわが家から徒歩30分、仙台と山形を結ぶ仙山線の楯山駅から、SL機関車がひっぱる3両編成の列車での汽車通学。3両のうち2両は乗り切れない人が出るほど超満員なのに、進駐軍専用の1両はガラガラだった。
「進駐軍」と呼ばれたアメリカ兵に、子供たちは「ギブミー・チョコレート!」と群がったというのが戦後史の定説だが、12歳のぼくは、そう無邪気にもなれなかったが、超満員の列車のデッキにぶら下がりながら、隣のガラガラの車両を眺めても、特に反撥や憎しみの感情をもった記憶はない。多分、戦時中習性となっていた「権力に逆らったら損だぞ」という気分だったのかもしれない。
そして11月。石炭不足によるダイヤ削減で学生定期が使用禁止になった。
汽車が駄目なら歩く。片道10キロ弱の徒歩通学は、特に大変だとは思わなかったのだけれど、山形の冬は足早にやって来た。
「はいてごらん!」
ほの暗いランプの灯りの中で、母は本当に嬉しそうに、そして、誇らしげに微笑んだ。
いま、ふり返って考えると、嫁入りの時に持ってきた着物や帯を近所の農家で米や野菜と物々交換して、毎日の食べ物を確保していたのに、当時、貴重品だったゴム長靴を手に入れるために、母は下げたくない頭を下げ、屈辱の涙を飲み込んだかもしれない。そうしたすべてを越えてのあの笑顔は、60年以上たっても忘れることはない。
このゴム長をはいて、ぼくは、毎朝6時に、夜の間に降り積もった新雪をかきわけて街道に出ると、橋のたもとに、同級生の「国男」と「長右衛門」が待っていた。冬の6時はまだ暗かったはずだが、雪あかりの中2人が立っている姿は、いまでも目にうかぶ。
3人は、8時50分に学校に到着するように、黙々と雪道を歩く。羽前千歳の駅が遠く見える広々とした田んぼの中の吹きさらしの1本道は、吹雪の日は本当に辛かった。
雪の中で1人が転べば助けおこし、いつもおくればちのぼくを2人は立止まって待ってくれた。
2人とは出会って3ヶ月、たまたま、村から山形中学に通っていたのが3人だけだったという関係で、仲良し3人組というわけではなかった。「友情」とか「助け合い」とかいう言葉がでたら、3人とも気恥ずかしい気持ちになっただろう。
でも、2人は、寒くても、風が強くても毎日必ず橋のたもとで、ぼくを待っていた。ごく当たり前のことをしているという顔をして……。
恩地 日出夫(1955年卒 映画監督)