▶ 2012年2月号 目次

いま、改めて戦後を思う――貧しかったけど幸福だった
③はじめてのアメリカ映画『ターザン』

映画監督 恩地日出夫


 NHKは、‘77年から’78年にかけて「日本の戦後」というスペシャルドラマを放送したが、その第1回「日本分割」の脚本は、ぼくが書いた。アメリカ国立公文書館で「日本分割占領計画――文書番号JWPC-385-1」が発見されたのをうけての企画だが、この計画は、戦後の日本をソ連、アメリカ、イギリス、中国で4分割して占領しようというもので、分割地図も用意されていた。
 もし実現していれば、朝鮮、ベトナムのように南北に、あるいは、ドイツのように東西に分割されていたかもしれない。しかし、アメリカ国務省のPWC(戦後計画委員会)は、この計画を否決する。
 理由は、アメリカが原爆を所有することになって各国のパワーバランスが崩れたことと、もう一つ、天皇の存在がかかわっていた。脚本の中で、ぼくは委員の1人で、開戦時の駐日大使、ジョセフ・グルーの発言を引用している。
 「天皇は、例えて言えば、女王蜂のようなものです。女王蜂はなにも決定しないけれども、働き蜂から敬愛されている。もし女王蜂がいなくなれば、蜂の巣の社会は解体してしまうように、日本という国も戦後の再建における精神的支柱として天皇を必要としている。」
 小学校で、天皇のために死ぬことだけを教え込まれていた中学1年生のぼくにとっては、その天皇が、はじめてマッカーサーを訪れた時の新聞写真が大ショックだった。
 モーニングの正装で夏の略式軍装のラフな格好で立つ大男の隣に並ぶと、身長はその肩くらいだった。――「敗けたんだ」と心の底から実感した瞬間だった。
 年が変わった正月元旦、天皇の人間宣言が出され、通学していた中学の正門脇には、戦争中、御真影(天皇の写真)を安置してあった奉安殿がそのまま残されていたが「カラッポなんだろうな……」と、ひどくむなしい気持で眺めた記憶がある。
 やがて、雪国山形にも春が来てぼくは、2年生になった。学生定期も使えるようになったが、列車は相変わらず超満員。中学生たちはSL機関車の石炭車によじ登った。怒った機関助手に石炭をぬらすための蛇口から水をかけらたりしたけれど、平気だった。
 そんなある日、学校帰りに初めて見たアメリカ映画が『ターザン』だった。