▶ 2012年3月号 目次
論文公開にストップかけた米国の本音
産経新聞論説委員 木村良一
論文の全文公開は有益だが、一定の条件がクリアされるまでは科学雑誌への全文掲載と研究再開は差し控えたい-。強毒性の鳥インフルエンザウイルス「H5N1」を研究した2本の論文の取り扱いをめぐり、WHO(世界保健機関)が、緊急の会議を開いてこんな勧告をまとめた。
WHOの一定の条件とは①社会に研究の価値を理解してもらう②ウイルスが外部に漏れないように研究施設の国際的安全基準を作る-の2点。その重要性は理解できるが、これは「テロリストが生物兵器に悪用しかねない」という米国政府の主張を重視したもので、WHOの対米配慮が見え見えだ。
ここでWHOが勧告を出すまでの経緯を説明しておこう。問題の2本の論文は、東京大学医科学研究所の河岡義裕教授とオランダ・エラスムス医療センターのフーシェ教授がそれぞれ個別に執筆した。H5N1ウイルスを変異させて動物に感染させる実験を繰り返し、どういった遺伝子の変異が起きれば人から人へと次々と感染するようになるかを示した内容だ。東南アジアや中国などでニワトリの間で感染が広がっているH5N1ウイルスが、突然変異で人の新型インフルエンザウイルスとなってパンデミック(世界的大流行)を起こすリスクがあることを証明した意義は大きい。
しかし、この2本の論文が英ネイチャーと米サイエンスにそれぞれ投稿されると、米国立保健研究所(NIH)の科学諮問委員会が昨年12月、内容の一部削除を要請して掲載にストップをかけた。その理由が前述した「テロリストが生物兵器に悪用しかねない」だ。
削除要請に河岡教授らは「論文を全て公開し、世界の研究者の知恵を借りて治療薬やワクチンの開発を進めることが大切だ」と反論し、今年1月20日には河岡教授を含む世界の科学者39人が研究を自主的に60日間停止するとの声明を出した。WHOは2月16日と17日に緊急会議を開き、冒頭の勧告を発表した。
ウイルスや細菌の研究内容は、どこまでその公表が許されるのか。科学者だけではなく、安全保障の専門家や法律家、生命倫理の学者らも交えて広く議論することが求められる。議論したうえで科学研究の推進とテロ対策の強化を両立させていくのが理想だ。そのためには社会に役立てようとする者だけが研究内容を入手できる世界共通のシステムを構築することも必要だろう。
ところで米国政府はなぜ、論文の一部削除を強く求めたのだろうか。米国は2001年9月11日の同時多発テロ事件の直後に炭疽菌によるバイオテロを経験している。バイオテロに過敏になり、「テロリストが生物兵器に悪用しかねない」なのかもしれない。
ただしインフルエンザウイルスは炭疽菌や天然痘ウイルスなどと違い、テロには使いにくい。ワクチンで感染を完璧に防ぐことができないうえ、空気感染で人・人感染を引き起こし、ウイルスをばらまく方が感染してしまう危険性が高いからだ。
河岡教授も著書『インフルエンザ危機』(集英社新書)の中で「強毒インフルエンザウイルスを人工合成してまでバイオテロに用いるテロ集団は、実際にはいないだろう。わざわざ強い毒性をもつウイルスを作りださなくても、すでに世の中に存在する病原性の強い病原体を使えばいいからだ」と述べている。
疑問はまだある。これまで米国はこうしたインフルエンザ研究の論文の掲載に対し、待ったをかけるようなことはなかったのになぜ、いまこの時期に一部削除を主張したのか。
米国では11月の大統領選を控え、再選を狙うオバマ大統領は国民の人気を得るのに必死だ。しかし依然と失業率は高く、経済の低迷は続き、オバマ支持率は低下したままだ。そんななかで不安材料をひとつでもなくしておきたいと考え、テロに使われる可能性がないとは言い切れないインフルエンザウイルスの研究にストップをかけたという見方ができる。
それに致死率が高く、しかも大流行するような新型インフルエンザの治療薬やワクチンの製造には間違いなく莫大な利益が付いて回る。論文の内容が全て公開されてしまうと、その利益は分散してしまう。
こう考えていくと、H5N1ウイルスの研究費の大半を出して推進しながら論文公開にストップをかけた米国政府の本音が見えてくる。
(産経新聞論説委員 木村良一)