▶ 2012年3月号 目次
「今なぜ『生き方塾』なのか?」
「下村満子生き方塾」塾長 下村 満子
「下村満子の生き方塾」なる寺子屋的塾を発足させようと思い立ったのは、2010年6月ごろでした。それも、東京ではなく、私の両親の故郷であり、先祖伝来の地である、福島県で、です。常に中央、東京を向いている日本の「地方」から、逆に全国、そして世界に発信、という気構えでした。
幼児期に満州で終戦を迎え、引き揚げてきてから今日までの私の道は、まさに日本の敗戦から戦後の復興期、そして経済大国日本、更にはバブル崩壊から今に至る、激動の戦後日本史とそのまま重なります。加えて男女平等を定めた新憲法下、戦後の革命的な日本の女性史をそのまま生きてきたという実感もあり、我ながら随分ドラマティックな時代に生を受けたものだと感無量になるとともに、大変幸運な時代を生きてきたという感謝の思いも抱いています。
ただ、敗戦の廃墟から立ち上がり、成功のモデルと羨まれてきた日本ですが、一方で、経済的に豊かになるにつれ、日本人の心は、貧しくなってきたのではないか、という思いを長年抱えていました。例えば親殺し、子殺し(それも考えられない残酷な)、家庭内暴力、教育現場でのいじめ、教師による女子生徒への性的暴力、生徒の教師への暴力、高齢者に対する詐欺や暴力、貧困者や弱者を騙すビジネス、これまでは社会の模範として尊敬されてきた職業、例えば大学教授、教師、医師、弁護士、新聞記者、自衛官などなどによる犯罪を見聞きするにつけ、その思いは一層強くなるばかりでした。
学問のあるなしに関わらず日本人が本来持っていた、美徳、東洋的な和の心、人としての道、利他や優しさ、謙虚さ、倫理道徳の基本、人間としての誇り・尊厳・品格、足るを知る心、などが失われ、自己中心・利己的な、恥を知らない、権利ばかりを主張し義務も責任も果たさない、反省もせず、感謝の気持ちもなく、「政治家が悪い」「官僚が悪い」「社会が悪い」……と、すべて他人のせいにし、一億総評論家となり批判ばかりするけれど、自己反省は全くない、といったギスギスした日本社会になってしまいました。
いまや、日本経済は長い停滞期にあり、国の信用は地に落ち、学力は低下し、若者たちは未来に対する夢と希望が持てず、失業や就職難の不安におびえ、全く元気がなく、思考停止し、小さな世界に閉じこもり、内向き、保守的になっています。
もはや絆創膏を貼って一時的に傷口を押さえるだけでは間に合いません。日本の国力、経済力、政治・外交力、教育力の根本的な再生のためには、短期決戦の魔法の杖はなく、時間をかけた「日本人の人間力の回復・再生」、言い換えれば「日本人の心の再生」に取り組むしかありません。
組織もスポンサーなく、たった一人で福島各地を歩き、説明会を開催するうちに、寺子屋のつもりが200人の塾生が集まってしまいました。
開塾を4月16日と決め、準備を進めていたところ、あの大地震、巨大津波、加えて福島は原発事故と放射線汚染という三重苦に襲われたのです。入塾予定者の中にもたくさんの被災者、犠牲者が出ました。開塾は無理だとだれもが考えましたが、「今こそ、この苦難の時こそ、生き方塾です」という熱い声が湧き上がり、その強い思いが原動力となって、予定通り、奇跡的に開塾しました。新幹線が福島まで繋がった2日後でした。
以来10か月、塾生たちは真剣に「命とは何か」「生きるとはなにか」「何のために生きるのか」といった原点の問題をど真剣に語り合い、学び合い、素敵な仲間と出会い、笑いの絶えない楽しい塾に育ちつつあります。塾生は15歳から80歳まで多様で、月一回土曜日開講なので、関東はじめ京都、上海など、あちこちからやってきますし、学生から、経営者、管理職、医師、学者、サラーリンマン、県の職員、中央官庁のキャリア、教師、校長先生など、さまざまです。昨年11月には、ダライ・ラマ法王が来て下さり、塾生だけではもったいないので公開講座にしたら、内外から2000人が郡山に集まりました。
現在、1期生と2期生が共に学び合い、今、3期生を募集中です。
下村 満子(1961年卆 「下村満子生き方塾」塾長)