▶ 2012年3月号 目次
いま、改めて戦後を思う――貧しかったけど幸福だった
④"墨ぬり教科書”そして”本田靖春"
映画監督 恩地日出夫
東京に帰って再入学したのは、東京大空襲の直後に入学、1ヶ月ほど在籍した都立千歳中学校(旧制)だった。木造2階建の校舎と体育館は、世田谷区粕谷の畑の中に戦争中と同じ姿で残っていたけれども中身はだいぶ違っていた。
中央昇降口の上の3畳ほどの小部屋には国語のY先生夫婦と赤ん坊。2階の生物教室前の廊下をベニアで仕切って英語のC先生、体育館裏の軍事教練用の三八式歩兵銃が並んでいた武器庫には、数学のT先生がお母さんと妹さんと3人で、それぞれ住んでいた。当時の東京の住宅事情としては、それほど違和感は感じなかったが、やはり、ノーマルな状態ではなかった。
そこで、まずやらされたのが、戦争中の教科書の不都合な部分を墨でぬりつぶす作業だった。教師の指示に従って墨をぬるのだが、その部分が何故不都合なのかの説明はなく、ただ「進駐軍の命令で……」とだけ聞かされ、「違反すると沖縄に連れて行かれて、強制労働をさせられる」という噂話が、まことしやかにささやかれた。
都立千歳中学校というのは、戦争中、軍事教練の査閲で上位を占めつづけ、陸軍士官学校と海軍兵学校への進学枠を25人づつ与えられていたエリート校で、同級生たちは世田谷を中心に小学校で成績優秀だった子供たちが集まっていたのだが、その中に韓国・ソウルから引揚げて来た本田靖春がいた。本田は新聞記者としてもノンフィクション作家としても良い仕事をしたから御存知の人も多いと思うけれど、7年前に『我、拗ね者として涯を閉ず』という遺作を残して彼岸に行ってしまった。その彼を偲んで、昨年ムック本が出版され、そこに寄稿したエッセイが、この頃の様子を割りとよく伝えていると思うので、以下、その一部を引用する。
ここに、VHSのテープがある。“ドキュメンタリー人間劇場・あの頃、空は青かった。――12歳だった仲間たち――”
1995年8月2日にON・AIRされたテレビ東京の終戦50周年記念番組である。ゲストが本田靖春とロイ芦刈で、ぼくが監督兼インタビュアーである。
3人は敗戦直後、旧制都立千歳中学の同級生だった。この中学は戦後の学制改革で新制高校になったので、一緒にすごした中学・高校生としての青春時代を語りあっている番組なのだが、その中で本田が「たしか高校2年の時だったと思うけど……」とこんなエピソードを語っている。
――ある日、持ち物検査があった。生徒たちは終った順に帰宅するのだが、担任の有賀先生が本田に残るように指示したという。
「あの頃、父親が結核で喀血したりして、わが家はかなり生活が苦しかったんだ。
それで、母親が茨城県の知り合いで、タバコを栽培している農家からタバコの葉を送ってもらって、それをキザンで巻煙草をつくっていたんだナ。おれは、それを隣の駅のタバコ屋まで、通学用の鞄に入れて運んでいたんだよ。
有賀先生は、本田に歯を見せるように言ったという。もちろん歯にヤニなどついていない真白な歯だった。
「お前吸うわけないよなあ」
先生の言葉を聞いたとたん、本田の目から涙があふれた。
「あれは悲しくてないたんじゃないと思う……口惜しかったのかなあ」
有賀先生は、あわててドモリながら「か、か、帰っていい」と言った。
ぼくには、この持ち物検査の記憶はないのだが、この有賀先生については、本田と共通の記憶があった。
ある夏の暑い日のことだった。
先生は、Yシャツもネクタイ、背広をキチンと着て授業をしていたのだが、暑いので上衣を脱いで黒板に向って書きはじめた。
一瞬の沈黙の後、教室中が爆笑した。
なんと先生のYシャツの背中が切りとられて裸の背中が露出していたのだ。
多分、切りとった布地で。前の見える部分を補修したのだろう。先生は生徒の反応に不思議そうな顔をしたが、自分の背中が裸なのに気付いて「ウフフ……」と笑った。
「いい先生だったよなあ。ドモリでバカにされてたけど、ほんと、いい先生だったよなあ……」 なにかあると必ず議論になる二人が、めずらしく笑顔でうなずきあっている。(文芸別冊・“本田靖春” 2010年7月刊)
敗戦から山形を経て、この中学・高校時代の6年間は、ぼくの原点になったような気がする。
恩地 日出夫(1955年卒 映画監督)