▶ 2012年4月号 目次
震災とメデイア (上) 市民という立場に身を置く
松舘 忠樹(元NHK記者 フリージャーナリスト)
あっという間の一年だった。3月11日、地震が発生した14時46分に、犠牲者を悼んで黙とうをする姿があちこちで見られた。筆者は所属するアマチュアオーケストラの有志で仙台市内の老人ホームに出かけ、震災一周年のミニコンサートを開いた。
14時46分、演奏を中断。ホームの入所者とともに黙とうを捧げた。
この間、新聞やテレビは震災特集が目白押しだった。古巣のNHKは一週間、連夜NHKスペシャルを放送していた。後輩たちの努力に敬意を表する。ただ、番組のトーンに首をかしげるものもあった。例えば、3月10日のNスペ「もっと高いところへ」。高台移転事業がなかなか進まない現状と、小さな自治体の苦労を伝えていた。
復興とは被災者の生活再建が最優先であるべきだ。こうした点から政治の無策を追ったのはいい。ただ、これを自治体職員の“奮闘・美談”で描く必要はなかった。今各地で問われているのは、住民に近いはずの自治体が果たして被災住民に充分寄り添えているかという点だ。中央政府の“上から目線”が、時が経つにつれ自治体にも伝染したかに筆者には思える。番組の舞台となった自治体でも同じような例をいくつも聞かされた。“美談”仕立ての番組を鼻白む思いで見た住民も少なくないのでは。
番組の末尾で、担当記者が高台移転以外に地域復興の途はないと力説していたのを、うすら寒い思いで筆者は見た。また、大政翼賛会だ。原発の安全神話にメデイアが眠り込まされていた歴史を繰り返すと。これは後ほど詳述する。
筆者の立場をはっきりさせておこう。
2001年にNHKを、2009年に関連のNHK文化センターをそれぞれ定年退職した。趣味の音楽中心に余生を過ごそうと思っていた。そこに3・11である。被災地近くの住民、同じ東北人として周辺で進行する事態に無縁でいる訳にはいかなかった。フリージャーナリストの名刺で取材する日々が始まった。半年間の取材記は「震災日誌in仙台」という本にまとめ出版した。その後の取材記録は同名のブログで連載中である。
市民とジャーナリストという二つの立場で、震災と復興を取材している。誰かの指示で動く必要はない。あくまで自身の関心に従っての取材は気楽である。それ以上に、この年齢で改めて取材の“楽しさ”を味わうことができた。一方、市民という立場に身を置くことで、メデイアに属していた頃には見えなかった多くのことに気付かされた。
昨年9月、塩害を乗り越え稲の収穫に成功した農家の方を取材した(「震災日誌in仙台」141~144頁)。2~3度通ってようやく取材に応じてもらった。「胸を張って自慢できますね」と私。意外な答えが返ってきた。「手放しでは喜べない。多くの仲間が米作りできないまま1年を過ごした。百姓は1年休むと身体だけでなく、精神的なダメージは大きい」仲間を気遣う言葉だった。気難しくて取材を渋ったのではない。晴れがましい姿をさらすのをためらったのだ。
同じこの方を取材した朝日新聞は、満面の笑みの写真、誇らしい談話が載っていた。メデイアに属していたら、多分私もそうした。
仲間を思いやる言葉は、被災地の農業が置かれている苦境を的確に言い表していた。メデイアは限られた字数、時間を理由に自らの思い描いたストーリーに沿った事実しかすくい取らない。これが真実とはほど遠いことは言うまでもない。
朝日新聞の被災地駐在記者が週一回書く「○○日記」というコラムがあった。津波からかろうじて生き延びた人、最愛の肉親を亡くした人。胸に迫るドラマがあり愛読していた。震災から半年過ぎた頃から何故か平板になってきた。月日が流れたせいかと思った。ある地域担当のM記者が紙上座談会でこう語っていた。(朝日新聞、3月14日、メデイアフォーラム)『「日記」はデスクに何度も書き直しを命じられ、取材に4日、執筆に3日かけている。一つの「物語」としての深みを持つまで取材する』
これだと思い当たった。丁寧な取材は悪いことではない。しかし、素直な感性でキャッチした「物語」の方が読む人に訴えるのではないだろうか。現役時代“うるさい”デスクに反発した思い出から言っている訳ではない。専門家であるデスクがひねくり回した記事は鮮度を損なう。
朝日新聞の名誉のため付け加えておく。「日記」の連載は3月で終わった。最終回の記事はいずれも輝きを取り戻していた。デスクが手をいれなかったのかも知れない。
松舘 忠樹(元NHK記者 フリージャーナリスト)