▶ 2012年4月号 目次
メディアが当事者なのに、なぜ報じない?〜薬害イレッサ訴訟下書き提供事件〜
隈本邦彦(江戸川大学メディアコミュニケーション学部教授)
電力会社が世論を演出しようとしたいわゆる“やらせメール”問題は、新聞・テレビ各社が大々的に報道して、知事が窮地に追い込まれたり社長が辞意表明するなどの大きな影響が出た。ところがまったく同じ構造を持つ、もうひとつの“やらせ”問題である薬害イレッサ訴訟をめぐる「下書き提供事件」は、あまり報道されていない。
ことの発端は、薬害イレッサ訴訟1審判決直前の2011年1月に東京地裁が和解勧告を行ったことである。裁判所は、被告の国と製薬会社(アストラゼネカ社)に対し、イレッサ発売当時の添付文書に副作用についての十分な警告がなかったこと等の責任を認め和解金を支払うよう求めた。そしてその後1月19日付読売新聞に、厚生省薬務局の有力OBが「国は謙虚に和解勧告を受け入れるべきだ」と述べている旨の記事が掲載された。
このOB発言の記事を読んだ厚生労働省幹部らには強い衝撃が走った。そしてメディアの中にも“和解受諾に積極的な雰囲気”があることを察知し、異例の“働きかけ”が始まったのである。
後の厚労省の調査等によると、その日から厚労省幹部らは日本医学会、日本肺癌学会、日本臨床腫瘍学会など5つの学会の幹部に電話をしたり直接面会を求めたりして、学会として和解受諾に反対する意見を表明するよう働きかけた。その中には、わざわざ声明文の下書きを提供していたケースもあった。そして驚いたことに各学会は、働きかけから数日以内に、いずれも下書きとほぼ同趣旨の「見解」を発表した。(日本医学会は会長見解)
こうした動きをメディア各社は当時、次のように報じた。
「医療界も24日、所見の内容を懸念する見解を公表。日本肺癌学会は「重篤な間質性肺炎発生の可能性を承認前や承認後ごく早期に予見することは困難だった。責任を問うならば、薬事行政のさらなる萎縮は明らか」とした」(1月25日産經新聞)
このように「医療現場はそろって反対」といった雰囲気が伝えられたところで、それに息を合わせるように国は「和解勧告拒否」の会見を開く。あたかも世論の後押しを受けて和解を拒否したという演出が行われたのである。
下書き提供の事実が明るみに出た後の去年3月厚労省に検証チームが作られ5月に報告書が公表された。報告書では、下書き提供までしたことについてはさすがに「公務員としては行き過ぎ」と釘を刺しているものの、厚労省が幹部ぐるみで行っていた学会への働きかけに対しては、「国民に対し、多様な意見が存在することを示し、かつ厚生労働省の従前の施策に対する信頼感を高めようとするもので、通常の職務の執行の範囲内であると考える」という甘い結論を出した。メディア各社はその結論をそのまま伝えた。
しかしどうだろうか。「電力」「やらせ」のキーワードで検索すると、朝日、読売、毎日、NHKの4社だけで、この1年間に実に2300本以上の記事が出稿されている。その基本姿勢は、仮に国や電力会社が「国民に対し、多様な意見が存在することを示したかった」と言い訳をしても、自分たちの影響力がおよぶ人々にわざと賛成意見を言わせることは「やらせ」であり、「不正」だという判断だろう。なぜイレッサ下書き提供事件にも同じ姿勢が貫かれないのか。これでは「いまは電力会社を叩きやすいから叩いているのでは」と言われても反論できないだろう。
ましてや、この下書き提供事件では、メディア自身が当事者なのである。厚労省の官僚に、学会経由でまんまと操られていたのだ。それに怒らない各社の鈍感さにあきれる。そして、そもそも「専門学会の見解だから」と、その背景も吟味せず鵜呑みにして報じたメディア自身の責任についても、この際深く反省する必要があると思う。
隈本邦彦(江戸川大学メディアコミュニケーション学部教授)