▶ 2012年4月号 目次
いま、改めて戦後を思う――貧しかったけど幸福だった
⑤正義とは? ゆれる中学生の心
映画監督 恩地日出夫
前回、山形から帰京して中学2年に編入されたところで、いきなり本田の高2時代のエピソードに飛んでしまったが、もう一度、1947年にもどる。
この年の1月31日、ラジオから流れた翌2月1日に予定されてたゼネストの中止を告げる共闘会議々長の涙声は忘れられない記憶だ。
「マッカーサー最高司令官の絶対命令とあれば中止せざるを得ない…… 私は、いま 一歩退却、二歩前進という言葉を思い出します。労働者農民バンザイ、われわれは団結しなければならない」と叫んで号泣した。
ぼくは、「あれ?!」と思った。
それには、伏線があった。ある日、戦争中、配属将校の下で軍事教練の教官をやっていた下士官あがりのNが、新設された「社会科」の教師として、襟章をはずしただけの軍服姿で教壇に立ち、黒板に「三権分立」と書いたのである。
敗戦を境に、それまでの正義がすべて悪となり、新しい価値基準を模索しはじめていた中学生のぼくが、大人への不信と既成の権威の完全否定を心の底に、刻みつけた一瞬だった。
それでも、軍人支配の戦争一色の社会から、占領下とはいえ自由で明るい社会への変化は解放感にあふれていたし、新憲法の第9条「戦争放棄」は、すばらしいと思っていた。その憲法公布から3ヶ月で、こんどは、ゼネスト中止命令である。「あれ?! GHQは味方なの? それとも敵なの?」中学生の感想である。
そして、もうひとつ。
”栄養失調で死亡・判事がヤミ拒み”
この年の11月、朝日新聞の見出しである。
「……ギリギリの薄給から、一切のヤミを拒否して配給生活をまもりつづけ……」とリード記事があって、判事の日誌がのっている。
「食糧統制法は悪法だ。しかし、法律としてある以上、国民は絶対にこれに服従せねばならない。自分はどれほど苦しくともヤミ買出しなんかは絶対にやらない。従ってこれをおかすものは断固として処断せねばならない。自分はソクラテスが悪法と知りつつ、その法律のために、いさぎよく刑に服した精神に敬服している。……」
ぼくは、いまこの文章を縮刷版からひきうつしているのだが、ここで、忘れられない記憶がよみがえる。
2人は、ぼくらが赤ん坊の頃つかっていた乳母車を押していた。乳母車といってもキャンバスの布地が、四角い鉄枠に張られた頑丈なつくりで自家用車などないあの時代、荷物の運搬に使っていた。
いつ帰るかもわからない母親を待つうちに、妹は乳母車にすっぽり入って寝入ってしまう。
夜も更けて、やっと、自分の身体よりも大きく見える手製のリュックを背負って、母が電車からころげ落ちるように降りて来る。
目線が合うと疲れた顔が無言で笑顔に変わる。イモがつまったリュックを乳母車に乗せ、母が妹の手を引いて家路につく。
当時の環7は道幅は現在の四分の一ぐらいで、歩道はなく片側にドブ川が流れていた。その後、「野沢銀座」という商店街が出来るが、あの時は店の数も少なく店の灯りも消えていて、月明りの中を3人道一杯にひろがって歩いた。
餓死した判事の主義に従えば母は犯罪者ということになるが、母が背負って来たイモ、庭の芝生をはがして父がつくった野菜や祖母が飼っていたニワトリの卵、これらがあったから、ぼくら3人兄弟は生きることが出来たのである。
軍国主義から民主主義へ、いとも簡単に乗り換えた元軍人の社会科教師は軽蔑すればいいとして、法律を守って餓死した判事は、どう評価すればいいのか?
法律が絶対でないことは、旧憲法が新憲法に変ったことで証明されていたし、敗戦を境に、「正義」と「悪」も完全に入れ替わってしまっていた。
しかも、絶対的な権力をもって、日本を占領、支配しているGHQは、民主的労働運動を推奨、推進していたと思ったら、手のひらを返すようにゼネスト中止命令である。
中学3年 14歳の悩みはつきない。
そして、高校生になったぼくは、大人への不信を学校生活のなかで爆発させていくことになる。
恩地 日出夫(1955年卒 映画監督)