▶ 2012年4月号 目次
震災とメデイア (下) 真実から遠ざかる震災報道
松舘 忠樹(元NHK記者 フリージャーナリスト)
今回の震災で浮き彫りになった問題の一つは、新聞・テレビなどの既存メデイアと、ツイッターなどソーシャルメデイアを代表とする新メデイアのどちらが公共空間かという議論だ。これにも通じないだろうか。経験豊かなデスクが手を加えた記事は確かに安定感はある。一方のソーシャルメデイア。取材の素人である人物が発信することが多い。それだけでは信頼性に欠ける。しかし、多くの人々が発信する情報が付加されていくと、それは真実に近い記事になりうる。そして、一般市民も自在に情報発信に参加できるという点では、こちらが公共空間と名乗る資格があるのではないだろうか。
今回の震災は、ソーシャルメデイアをめぐる論議が提起された転機としても記憶されるべきだ。震災直後、津波警報をツイッターで知ったという若者が多かったのに驚かされた。もはや“安心ラジオ”の名前に安住はできない。
被災自治体では、高台や内陸への集団移転事業を進めている。被災者は元の土地を買い上げてもらい、代わりに移転候補地の土地を買い、家を建てるというものだ。しかし、被災した元の土地は震災前に比べ地価は下がっている。逆に移転先の地価は高い。仙台市の場合で1世帯あたり少なくとも3000万円、重い負担を背負うことになる。自宅の新築をあきらめて、災害公営住宅を選ぶ被災者が増えているのはこのためだ。
被災者の中には、移転ではなく現地での再建を望む人々もいる。地盤のかさ上げや、避難ビルを建設するなど減災策を取れば最低限の安全は確保できるというのだ。移転を促す自治体と住民が対立することになる。
こうした対立が仙台市の荒浜地区と、宮城県南部の山元町で起きている。いずれも、一定の地域を災害危険区域に指定し、住居の建築を禁止するという手法をとった。住民たちは、区域指定の撤回などを求めているが、自治体側は今のところ耳を傾ける姿勢を見せない。こうした施策は私権を制限する。慎重な上にも慎重に進める必要があるが、事前に住民の意向を聞いた形跡はない。敗戦という大きな代償を払って獲得した住民自治が、果たして私たちの社会に根付いているのかをはかるケースとも言える。決して一地域の問題ではない。見逃すことのできないテーマで取材を続けているが、周りにメデイアの姿はない。
メデイアのあり様を的確に突いていた。行政が総がかりで移転事業に取り組んでいる中、小さな異論に付き合っている暇はないということだろうか。
確かに、防潮堤の建設や、堤防の役割を果たす道路のかさ上げなどの防護策を重ねても、住民の安全確保が難しい地域はある。そこでは集団移転が適切な施策だ。しかし、移転がすべてではない。1993年の北海道南西沖地震で津波に襲われた奥尻島では、事前のアンケート調査で住民の20%が高台移転を望まなかった。町は全戸移転ではなく、一部移転案を採った。移転ありきではなく、住民の意向を踏まえて複数の選択肢を考えられる地域も存在するはずである。
被災3県で移転の対象とされているのは1万5000戸。事業費は当初見込みの8000億円をはるかに越えそうだ。復興事業の柱というが、壮大な土建屋事業に見えてくるのは筆者だけだろうか。
万里の長城と呼ばれた宮古市田老の防潮堤を津波はやすやすと乗り越えた。震災からの教訓として、ハードに頼り過ぎない。避難路の確保や避難ビルの建設など、減災のソフト面を重視すべきだ、などが語られた。こうした議論を忘れ去ったように、政治も行政も集団移転に走る。大勢が決したと判断したのだろうか、メデイアも雪崩を打ったように集団移転だ。
どこかで見た光景だ。原発の安全神話である。大勢を前に多くの人々、そしてメデイアも思考停止、神話に眠り込まされた。悪夢のような福島原発事故がようやく、私たちを神話から解き放った。残念ながら、筆者もその一員だった。
こうした過ちを繰り返さないためにも、“市民派”ジャーナリストの取材を続けるつもりである。
松舘 忠樹(元NHK記者 フリージャーナリスト)
「震災日誌in仙台」
{2011年10月31日発行、1260円(税込)
笹氣出版 022-288-5555}
ブログ「震災日誌in仙台」
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