▶ 2012年5月号 目次
インフレファイター、デフレファイター 〜三重野康さん逝く〜
瀬下 英雄(叡Office 代表)
去年の東日本大震災から2ヶ月余り、2011年5月20日の夕方、東京駅に近いとある高層ビルの30階の和食レストランにゆっくりとした足取りで元日銀総裁、三重野康さんが現れた。
三重野さんが若かりし日銀マンの頃から金融問題を取材してきた老ジャーナリスト数人のグループが三重野さんの数え年88歳、米寿を祝う会を開いた 「私はもう医者の言う事ことは聞かない」「酒も好きに飲むし、したいことも山のようにある」と怪気炎に見えたが、「早く、妻のところへゆきたい」と、幾たびとなく語った そして、それからほぼ一年、今年の4月15日、三重野さんは、思いがかなったのか、奥さんのもとへと旅立っていった。
三重野さんが日銀総裁に就任したのは1989年の暮れ、それから8日後の12月25日には公定歩合の引き上げ(金融引き締め)に踏み切り、それを含めて矢継ぎ早に3回、就任からわずか8ヵ月後、公定歩合は6%に達していた。今、振り返ると、その時が今なおその評価を巡って議論が続く「失われた20年」の始まりだった。
当時の日本経済はすでに高度成長を終えて、2回の石油ショックも見事に乗り切りインフレーション、バブルの時代へと突入しつつあった。
バブルは、1991年までの5年間で地価(大都市商業地)が3.5倍、株価は3倍などという凄まじさで、”バブルに踊る"日本経済の酔いを醒ます役割が三重野さんに巡ってきていた。インフレファイター、三重野康の誕生であった。江戸時代、火付け盗賊から庶民を守った鬼平になぞらえて”平成の鬼平"とも呼ばれた。そして鬼平の、まさに鬼のような活躍でインフレーションの炎はみるみるうちに萎んでいった。地価は、1991年から5年間で3分の1に、株価は、同じく半分に。そして、経済成長率は、1990年からその後10年間の平均がわずか0,8%、バブルのピークまでの15年間と比べて、実に、5分の1にまで急減した。
だが、こうした地価や株価などの急降下は、いわゆる資産デフレをよんで、とくに不動産などに巨額の資金を貸し込んでいた金融機関の経営を悪化させた。
1997年から1998年にかけて日本長期信用銀行など3つの大銀行、山一証券、三洋証券という一流証券会社があいつで破綻した。とくに銀行は潰れないという”神話"が崩れ去って、日本経済はインフレからデフレへと、長いトンネルに入った。
さて、インフレファイター 三重野さんの時代から、およそ20年、今日の日銀は様変わりして”未知の領域"へと入りつつある。三重野さんにとって”伝家の宝刀"であった公定歩合は1995年以降一時期を除いて、事実上のゼロ金利を継続、極言すればもはや有名無実の存在となっている。また今、日銀は市中銀行を通してとは云え、インフレを引き起こすとして、かってタブーとしていた国債など債券の大量購入をすすめ、更には、限られた範囲とはいえ民間企業への貸付にも乗り出している。こうした様変わりは、予想もしなかった「失われた20年」、つまりデフレの20年から脱出をめざす試行錯誤の結果ではあるが、皮肉な事に、今の日銀を見る限り、これまで最も敵視し、警戒してきたインフレを 頼りとして、デフレに対抗しようとしているとも見える。
実は、こうした謂わばデフレファイターとしての中央銀行の姿勢は、日本だけでなく米欧でも一般的となりつつある。
リーマンショック後のアメリカと、財政危機に怯えるヨーロッパは、一足先にデフレ対策と取り組んできた日銀の手法。”未知の領域"に遅ればせながら入り込んで、日銀同様に、デフレ脱却をめざしている。
こうして世界中がデフレ脱却の大合唱の中、今や、日本の政界では日銀法を変えて日銀総裁を交代させ、一層積極的にインフレを推進させると息巻く民主党の国会議員も出る始末だ。しかし、忘れてならないのはインフレ(物価上昇)は庶民の敵という事だ。例えば、インフレは日本国債の金利の上昇を招き、国のi財政の悪化や国債を大量に持つ銀行を破綻させるという危機も孕んでいる。安易なデフレファイターであってはならない。
瀬下 英雄(1966年卒 叡Office 代表 元NHK記者)
<参考文献>
・「利を見て義を思う」三重野康・中央公論社
・「ジャパン・ライジング」大塚耕平 ほか・丸善プラネット