▶ 2012年5月号 目次
いま、改めて戦後を思う――貧しかったけど幸福だった
⑥大人への”反抗”が出発点
映画監督 恩地日出夫
まず写真説明から入る。
16歳、高校2年生のぼくだ。高校の卒業アルバムから近所の写真屋でコピーしたものだが、アルバムは学校支給でダークグリーンの表紙に校章が入っているが「中味は勝手に貼りなさい」というシステムだったようで、この頁は写真説明の代りに、新聞の切り抜きが貼ってあり、「恩地君(千歳高校)連続優勝・都下新制高校雄弁大会」という見出しがついている。
’48年、新しく6・3制が実施されて、旧制千歳中学は、新制高校となり、中学4年生になるはずだったぼくは高校1年制ということになった。写真はその翌年のもので、新聞の見出しも、わざわざ「新制」とつけている。
あの頃、千歳高には弁論部はなかった。それなのに、何故1人で渋谷公会堂まで出かけたのか? 記憶にあるのは2階席の一番前で数人の同級生が応援してくれたことと、優勝カップの置き場に困って校長室へもって行ったことぐらいだ。
熱中したのは、新しく生徒会をつくることだった。上級生がいるのに1年生のぼくが立候補して会長になり、まず変えたのが会費の生徒による自主管理だった。それまで校友会費として授業料と一緒に事務室に納入して学校が管理していたのを、生徒会費として生徒が集めて、生徒が管理するというわけだ。
理屈は通っているのだが現実は大変だった。女生徒でもいればサマになっただろうが、男子校の悲しさ、汗臭い連中がソロバン片手に頑張ったが、何故そうなったか?
そもそもの発端は、「ギャボは信用出来ない」という誰かの発言だった。「ギャボ」というのは逆蛍の略で、禿頭の事務長の仇名だった。つづいて「長髪禁止」「腕時計禁止」といった禁止事項をつぎつぎに廃止して自由を謳歌した。
さて、”疵・花形敬とその時代”という本田靖春の作品があるが本のおびには「戦後の渋谷を制覇した暴力団安藤組の大幹部。力道山よりも喧嘩が強かった男」とある。この花形さんは、わが千歳高校で、本田やぼくの2年先輩だった。本田は作品のなかで、大昔のぼくの文章を引用して、こう書いている。
「敗戦直前に入学した七期生の一人である恩地日出夫(東宝映画監督)は、千歳ペンクラブの機関誌『きろく』第5号(昭和二十五年十二月二十二日発行)に「疑問符」と題して次のような一文を寄せている。
これは教育の背景となる思想が、軍国主義からデモクラシーへと変っただけで、いぜんとして、天降り式の”かくあるべし””かくあるべからず”の教育の再現に他ならない。昨日まで毒物をくわされて来たわれわれには、とてもコックの言を信用する気にはなれないのである。
生まれ落ちてから十数年間、心の中につくりあげられて来た価値基準が、すべて、いとも簡単に崩されてしまったいま、我々の世代の拠りどころとして求められるのは、現在という瞬間と、おのれの生命と肉体、それだけでしかない。……(後略)>」
もう30年も前のことになるが、雑誌に載った”疵”を電車の中でよんでいて、この文章に出会った時は、一人で赤面したことを想い出す。
本田は、つづけてこう書いている。
「敗戦から五年四ヵ月を経て、十七歳の少年によって書かれたこの文章は、いささかの気負いの中に、アプレと呼ばれた世代が教師、ひいては国家社会に対して抱く不信感を強くにじませている。
絶対として説かれて来た徳目が、同じ教壇から同じ教師の口によって完全否定される滑稽さを、恩地は笑止千万と表現するが、それは多分、五年余の歳月があたえたいくらかの余裕がいわせるものであって、敗戦直後の学園で価値体系の崩壊を嗤えるものは、おそらくいなかったはずである。」(1983年・文藝春秋社刊)
こうして、60年前・17歳のぼく、30年前・50歳の本田、2人の文章を並べてみて、まもなく80歳になろうというぼくは、いま、何をすればいいんだろう?
見えて来るのは、この連載のテーマでもある「いま、戦後を改めてどう考えるか?」ということではあるのだが……。
恩地 日出夫(1955年卒・映画監督)