▶ 2012年6月号 目次
いま、改めて戦後を思う――貧しかったけれど幸福だった――
⑦いつも弱い方の味方でいたい
映画監督 恩地日出夫
高校1年生で派手に大人への反抗をやったぼくは、2年生になると小説のようなものを書いたり、同人雑誌に評論を書いたりするようになる。この頃、世の中は「逆コース」と呼ばれる流れの中で「下山事件」「三鷹事件」「松川事件」が起こるが、ここでは、アプレ犯罪と呼ばれた「オー・ミステイク事件」について書く。
日大ギャング事件とも呼ばれるこの事件の犯人は19歳で、一緒に逃げていた恋人は18歳だった。逮捕された2人の写真が新聞にのったのだが、それを見てぼくは、共感というか、憧れというか、不思議なものを感じた記憶がある。
犯人は逮捕された時、「オー・ミステイク」と言ったということで、これが流行語になったりしたのだが、ぼくの記憶に残っているのは、恋人の女の子の笑顔の写真である。彼女は、大学教授の娘だったが、この笑顔の裏にあるのは、父親への反抗ではないか?
そんなことを直感して、当時、大人の裏切りに対する不信感から、一途に反抗していたぼくの心に、憧れの気持が芽生えたのかもしれない。
さて、前回とりあげた”疵”(’83年刊)の中で、本田靖春は暴力団の幹部だった主人公についてこう書いている。
「暴力が忌むべき反社会的犯罪であることは論をまたないが、体制が崩壊して法と秩序が形骸化し、国家権力の行方さえ定かでなかった虚脱と混迷の時代を背景にした暴力を、国民の八割までが中流意識を表明する今日の感覚で捉えたのでは何も見えて来ない。(中略)私にとって花形は、千歳中学における二年先輩であった。彼を暴力の世界に、私を遵法の枠組内に吹き分けたのは、いわば風のいたずらのようなものであった。」
そして、この作品が出る5年前、ぼくはおなじ本田の「誘拐」をテレビ化したのだが、この「吉展ちゃん事件」の犯人小原保が、ぼくや本田と同い年であることに気付いた時、彼が映画監督になり、ぼくが誘拐犯になっていてもおかしくない……という気がして、これを作品の一つのモチーフとした。その結果、この作品が、刑事が主役で犯人小原を追い詰めるというストーリィではない、犯人小原に密着した構成のドラマ作りになったのだといまにして思う。
シナリオハンティングで訪れた小原保の故郷は、福島県の貧しい山村だった。そして、その生家は山の陰で陽が当らない小さな田んぼが斜面に連なる一角にあった。
プロデューサーが差し出した菓子折を保の兄は投げ返して怒鳴った。「ヌ、ヒトジニ(人死)が出たら、責任とれるか?」
JR水郡線の駅。ガランとした駅前食堂で、プロデューサーと向き合ったぼくは、口許まで出かかった「やめようか……」という言葉を押さえながら、坐っていた。二人の前で手がつけられていないラーメンが冷めていた。
――そして、ぼくは撮った。
「本名を使っていいですよ」という吉展ちゃんのお母さんの言葉にもはがまされたが、なによりも、犯人保への不思議な共感が原動力になった。
山形の田舎で、中学1年のぼくは母が手に入れて来た大人の長靴をはいて雪の中を学校に通ったが、小学生の保は、裸足にワラ草履で山道を学校に通い寒さで出来たアカギレから菌が入って丹毒になり、一生足が不自由だった。そのため、坐って出来る時計職人になり、兄の仕事の借金30万円が、誘拐殺人のもとになる。
もちろん、金のために4歳の子どもを殺した小原は許せない。しかし、彼をそこまで追い込んだものに対する怒りが、あの時のぼくの中にはくすぶっていた。だから「世間の人が、やっと事件を忘れようとしている時に、何故いまさらテレビで……」という遺族の気持を充分理解しながら、その気持に戻って、あえて撮った。
スペシャルドラマ「戦後最大の誘拐・吉展ちゃん事件」(’79年・ON・AIR)は沢山の賞の対象になったが、当時、殺人犯を主役に「復讐するは我にあり」を撮った直後の今村昌平さんが葉書で、ほめてくれたのが忘れられない。
それにしても、あえて、この作品を撮らせた犯人小原保への共感のようなものは、何だったのか?
いま振りかえると、本田が”疵”で、花形敬に感じたものとの共通点に気付く。そして、それは、2人の中学・高校時代の共通の体験に根ざしている。
本田は、「おれは由緒正しい貧乏人だ」そして「体制のポチにならない嫌われもののガンコ爺になるのが理想だ」と言っていた。
ぼくも……。
恩地 日出夫(1955年卒・映画監督)