▶ 2012年7月号 目次
いま、改めて戦後を思う――貧しかったけれど幸福だった――
⑧”My name is Romeo”
映画監督 恩地日出夫
1951年4月、慶應義塾大学入学。
当時の日吉は、鉄筋の校舎は航行が使っていた第1校舎と第2校舎のみで、白いコンクリートは、空襲にそなえて黒い塗料がぬられたままだった(写真中)。
授業のほとんどは、米軍が残していったカマボコ兵舎が使われていた。
ぼくは、経済学部1年N組に入ったのだが、このN組というのは、ちょっと変った組で、慶應高校で第2外国語としてフランス語をやった学生の成績優秀者と他の大学でフランス語を学んだ転入者のクラスで、フランス語既習クラスと呼ばれていた。そこへ高校現役入学のぼくが入ったのは、調査票に、「アテネフランセ・中級クラス在学」と書いたからなのだが、特に試験はなかった。
おかげさまで、めんどうな文法の授業はまぬがれたが、いきなり、ルナールの「にんじん」とジイドの「狭き門」の原書購読はかなり荷が重かった。
それでも、18歳のくせに酒とタバコは解禁になり、受験勉強から解き放たれて日吉の麻雀屋や渋谷の喫茶店に入り浸った。
そんなぼくが、何故、新聞研究室に入ろうと思ったのか?
前年6月にはじまった朝鮮戦争は、米ソ対立による冷戦を熱い戦争に変え、はじめての早慶戦にゲストとして招待されて、グランドから学生に手を振ったアメリカ占領軍のトップは、解任されたマッカーサー元帥に代わった、リッジウエイ中将だった。
この戦争を契機に、日本経済は再起の道を歩きはじめるのだが、一方で、警察予備隊が発足、アメリカでは、マッカーシー旋風が吹き荒れたり、世の中は、逆コースと呼ばれる流れの中にあった。こんな中で、ノーテンキなノンポリ学生だったぼくの心の中にも、再びやって来るかもしれない、戦争や、徴兵への恐怖が芽生えていたのだろうか?
それはともかく、ぼくは新聞研究室、というよりは、慶大新聞日吉支局の一員ということになり、早慶戦が終われば、夏の合宿である。この年は”蓼科”だった(写真下、牛と向きあっているのが筆者)。
左から2人目は筆者で中央は小倉定男(55年卒)で、ベトナム戦争の時は「サイゴン小倉特派員発」の記事が読売新聞1面トップを飾った。問題は、その隣の美女である。この人は研究生ではない。合宿の間だけ、名前も知らない”謎の女”として一緒に遊んだ。そして、数ヶ月後、「彼女は、生田正輝助教授夫人になったらしい」という噂が流れた。
新聞実習は、新橋にあった「時事新報」印刷所で輪転機の騒音につつまれながら、ベニア板で仕切られた校正室で赤インクまみれになるところから始ったが、そんなある日、先輩の斉藤宏さん(54年卒)に連れられて行った渋谷の喫茶店で、某女子短大生と出会って、恋が芽生えたりした。
なんとも、おおらかな大学生活のスタートだったと思う。
さて、この年の芥川賞は、堀田善衛さんの「広場の孤独」だった。そして、慶大新聞として、ぼくがインタビューを取りに行くことになった。
JR逗子駅で待ち合わせた、渡辺亭(55年卒)の後について、テクテク歩いて山を登ると畑が広がって、前夜降った雪が積もっていた。畑の中の道を歩いて行くと家があり、何故か玄関ではなく、畑に面したガラス戸が開いて、「どうぞ」という奥さんの声にうながされて入ると、リビングは、石炭ストーブが焚かれていて暖かかった。
「オー 来たか……」という声に振りむくと奥の部屋のフトンからはみ出したモジャモジャの髪がしゃべっていた。
インタビューの中味は全く記憶にないのだが、かなり長時間お邪魔をして、再び庭のガラス戸から畑へ出ると犬小屋があって、そこに”My name is Romeo”と書いてあったのをハッキリと覚えている。
その後、渡辺と散歩をした逗子の海岸は、陽光の中、春の海だった。二人は、インタビューの中味ではなく「犬のRomeoは留守だったけど、Julietは、あの奥さんなのではないか?」と真顔で議論した。
堀田さんとは、あの後、ゆっくりお話を聞くことはなかったけれども、その作品は、ぼくの人生の指針になった。「海鳴りの底から」「審判」「若き詩人の肖像」……。
こうして振り返ってみると、敗戦から講和条約までの中学高校生としての敗戦体験から、大学生になって一歩をふみ出した自分が見えて来るのだが、この年、そのキッカケとなった「血のメーデー」事件が起きる。
恩地 日出夫(1955年卒・映画監督)