▶ 2012年7月号 目次

旅と人間 ――日常生活と人生――

山岸 健(慶應義塾大学名誉教授)


  旅することは、それが一日の旅であろうと長期間の旅であろうと人間にとっては時空間の体験、大地と風景の体験、社会的世界や日常的世界の体験という点で注目に値する体験のなかの体験である。生存の自覚と呼ぶことができるような旅がある。誰の場合でも一日、一日が人生の旅だが、人びと、それぞれの人生は、そのつどのさまざまな旅によってはっきりと方向づけられてきたのである。人生を旅する人間の生活史において記憶と回想、思い出の道しるべとなっているようなさまざまな旅があるはずだ。それはいったいどのような旅なのか。人生を旅していることを自覚することこそ人間の深い生き方なのである。
   私たち家族三人での忘れがたい旅の日々にギリシアのアテネやデルポイ、エーゲ海が姿を現す。パリ経由の空の旅でヨーロッパのアルプスの山なみを眼下に眺めながらアテネへ。空からのアテネは白い市街地として私たちの目に映った。1997年3月なかば、春のギリシアだった。
 私たちは何度もアクロポリス、まさに小高い場所、パルテノン神殿の丘を訪れた。この建築の聖地は、その立地と地形、風景と風光、景観において特別に印象深い大地だった。古代ギリシアの遺跡のトポス τóπo ς 場所、アテネのランドマークとなっているアクロポリスからはるかかなたにエーゲ海が見えた。これほどみごとな印象深いランドマーク、土地の目印が体験される大地はないだろう。

 時はさかのぼる。1968年の8月末、イギリス、ロンドンでの留学生活を終えて帰国の途上、イタリアなどを訪れて、ローマからアテネに向かった。その時、アクロポリスでパルテノン神殿をスケッチした。
 1968年の晩夏、1997年の春、時は過ぎ去ったが、過ぎゆく時のなかで生まれる意味がある。人間は意味のなかで生きているのである。

 平凡な日常生活という言葉があるが、人びと、それぞれの日常生活は、平凡という表現で片づけられてしまうようなものではない。一日、一日の生活には数々のドラマやエピソード、さまざまな驚きや発見が見出されるのである。人生を旅する人間は、日々、意欲的に情熱的に誠実に生きなければならない。私達の唯一の大切な人生は日常生活にあるのであり、日常生活こそ人生行路の道しるべとなっているのである。