▶ 2012年8月号 目次
いま、改めて戦後を思う――貧しかったけれど幸福だった――
⑨‘52年 血のメーデー
映画監督 恩地日出夫
「‘52年5月1日、第23回メーデー(中央会場は神宮外苑)で、デモ隊6000人、使用不許可の皇居前広場に結集、警官5000人と乱闘、2人殺害され1230人検挙」(近代日本綜合年表・岩波書店)
“血のメーデー”と呼ばれた事件である。この日、ぼくはデモにも参加していないし、当然、皇居前にも行っていないんだが、その日の夜の帰宅コースは、いつもの渋谷から玉川電車で上馬下車ではなく、東横線で学芸大学まで行って、そこから歩いて帰った。
「騒乱罪が適用され、電車の駅には私服警官がはっているから普段の帰宅コースを変えろ」と誰かに云われたからだったが、具体的なことは覚えていないけれど、何か関連する動きにかかわっていたのかもしれない。
あの頃、「逆コース」という言葉が流行していた。戦争放棄の平和憲法に象徴される平和の時代から、再び、あの忌わしい戦争の時代へ逆戻りするのではないかという不安が、ぼくの心の中にたまりはじめていた。
そんなぼくに大きな刺激となったのが、2年生のクラス担任になった白井健三郎助教授だった。白井さんの授業はフランス語の原書購読だった。
1年の時は、ルナールの「にんじん」もジイドの「狭き門」も文庫の翻訳本でごまかせたが、白井さんのテキストはサルトルやボーボワールの新刊雑誌にのった論文だから日本語訳はどこにもない。課題をだされると、1人で悪戦苦闘した。
期末試験は、辞書持込み、煙草も自由でカンニングのしようもなかった。
そんな先生がクラスの忘年会で仲居さんの和服の裾に手を入れて大暴れしたのにはビックリしたが、今迄、教師というものに対して抱いていた不信感が一気に吹き飛んだような気がしたことは確かだった。
この白井さんが、前回書いた堀田善衛さんと並んで、若いぼくに大きな影響を与えることになる。
当時、三田には「平和を守る会」というのがあって白井健三郎さんが顧問で、クラスメートの谷中敦が中心的活動家だったが、ぼくは、この会にくわわるようになる。谷中は卒業後、故郷の浜松に帰って高校教師をやりながら平和運動をやり、やがて、専従となって最後に静岡県平和委員会理事長を退任するまで一筋道を歩き通して6年前に彼岸に旅立った。
その谷中がチューターで、4,5人の仲間が、それぞれ恋人を連れて唯物弁証法の基礎を勉強する読書会をやった。弁証法はとにかく、全員が恋人とのデート目的で出席率100%――名企画だった。
読書会といえば、新聞研究室でも米山桂三教授を囲み、夏休みの萬來舎でコリン・ウイルソンの「自由からの逃走」などを結構真面目にコツコツと読んだ記憶がある。
さて、そんな中で、ぼくは慶大新聞の編集に本格的にかかわるようになる。
あの頃、慶應には学生新聞が3紙あった。「三田新聞」「The Mita Campus」(英字)、そして「慶大新聞」である。
「三田新聞」は、伝統ある学生新聞で、経費は広告代と紙代でまかなう純粋な学生の新聞だったが、わが「慶大新聞」は新聞研究室の実習紙ということで塾の予算から補助をうけていた。そのこともあって、塾の「御用新聞」という風評があった。ぼくは、その風評も口惜しかったが、サンフランシスコ講和条約に対しても、自衛隊発足にむけての再軍備の動きに対しても、慶大新聞の論説の主張が「鈍い」と感じはじめていた。
そこに「メーデー事件」である。
ぼくには、皇居前で法制の学生が1人射殺されたというニュースとデモ隊に対して、ピストルを水平に構えて片膝をついた警官の写真が衝撃だった。それは、戦争中のある暗い記憶をよみがえらせ、更に、再び来るかもしれない徴兵制への恐怖をかきたてた。
そして、ぼくは共産党に近づいていった。
共産党と言っても、現在のフヤけた政党ではない。マッカーサー指令によって非合法化された組織で、9人の最高幹部は、全員、地下から、完全武装闘争を指揮していた。
中央の指針は、「平和と独立のために」という薄汚れた印刷の地下機関紙を通じて伝達され、「山村工作隊」「球根栽培法」などという言葉が飛びかい、党員は全員本名を隠してペンネームで呼ばれていた。
そんな組織に「平和を守る」という一途な気持だけで、ヤワな理論武装のまま近づいていったぼくは「若い」といえばそれまでだが、やや「無謀」だったかもしれない。
恩地 日出夫(1955年卒・映画監督)