▶ 2012年8月号 目次

旅と人間 ―― 人間と大地 ギリシア、デルポイへ ――

山岸 健(慶應大学名誉教授)


 文字の力と面白さ、魅力がある。感性や想像力に働きかけてくる文字や言葉がある。木、林、森、川などという文字を目にして風景を思い浮かべない人はいないだろう。上流と下流。川とは方向であり、矢印なのだ。糸、絲、縁、絆、織る……糸が姿を見せている文字や言葉が目に触れた時に人びとはどんなことを思い浮かべるのだろう。注目に値する文字がある。それは繭という文字だ。生物や植物、人びとの暮らしとともに大地が姿を現す。『森の生活』で知られるソローは、地球を大地の詩と呼んでいる。彼の目には地球は生きている大地として映っている。
 人びとは大地や宇宙、自然、人間、文化、文明、歴史などによって支えられながら人生の一日、一日を築きづづけてきたのである。人―間、人のあいだ、こうしたあいだや人びとの身辺にはなんとさまざまな対象や事象、道具や作品、建造物などがつぎつぎに見られることだろう。人生の旅びとは、身辺や環境や世界から目を離すことはできない。五感や想像力、感性や知性などを活発に働かせながら、誰もが一日、一日を広く深くいきなければならない。旅することによって私たちがそこで生きている環境や世界、経験や体験の領域はどんなにか生き生きとした広がりを見せることだろう。人生を生きる人間は、たえまなしにさまざまな支えと力を必要としているが、人間にもたらされる旅の力がある。
 方向、方角、方位という文字や言葉とともに宇宙や太陽、大地、道、家や窓、川、さまざまな風景や景観などが浮かび上がってくる。
 どこからどこへ、人間、一人、一人にとって、また、旅や旅することにおいて重要なことだ。画家、ポール・ゴーギャンがタヒチ島で制作した油彩の大作、作品のタイトルは、つぎのような画題だ。――「われわれはどこから来たのか、われわれは何者か、われわれはどこへ行くのか」この作品の制作年代は1897年-98年、アメリカのボストン美術館に所蔵されている。

 ところで緑の発見者、ジャン=ジャック・ルソーは、大地を人類の島と呼ぶ。山地の風景、高い樹木、森、湖、野の花などに特に関心を抱いていたルソーには太陽のルソー、無人島のルソーと呼びたくなるところがある。
 あくまでも人間に近づき、人間に注目して、人間の理解を深めようとつとめた人びとをモラリストと呼ぶ。フランスの、といういい方がある。デカルトやパスカル、ラ・ロシュフコー、ラ・ブリュイエールなどが姿を現す。ルソーはこうしたモラリストの言説よりも古代ギリシアのデルポイの神殿の銘<汝自身を知れ>という言葉の方がはるかに深い意味を持っている、という。