▶ 2012年9月号 目次
いま、改めて戦後を思う――貧しかったけれど幸福だった――
⑩ 政治と出会って
映画監督 恩地日出夫
「日本共産党慶大三田細胞」という組織は、恋人同伴の読書会など、いかにもケイオーっぽい「平和を守る会」にくらべると、やたらと秘密が多く、地下組織だから当然といえば当然だが、その全体像は、ぼくには、まるで見えなかった。「細胞」というから、せいぜい十数人の集りを想像していると、JR信濃町駅近くのキリスト教会で開かれた細胞の総会には、なんと100人以上の塾生が集まっていた。早稲田と比べて大人しいはずの慶應で、文経法3学部の3、4年生の中に100人以上の地下共産党員がいたというのは驚きだが、当時の学生が、かなりの危機感の中にいたという証でもあるのだろう。
最初は、「見習い」のような形で、先輩の後にくっついて、三田署に仲間の不当逮捕を抗議に行ったり、品川電車区の国鉄労働者向けの党の宣伝チラシの配布に行ったりすることから始まったのだが、出発前、先輩は、逮捕された時に身元がバレないように、Yシャツの洗濯ネームをはずすように指示した。
忘れられないのは、デモで初めて警察機動隊と対峙した時のことだ。メーデー事件以後、機動隊は金属盾を装備するようになっていた。鈍く光る盾の壁が、ゆっくりと迫ってきた時、デモの最前列で、ぼくは正真正銘の恐怖を感じていた。それは、権力の恐ろしさを肌で記憶した一瞬でもあった。
その権力は、「破防法」を成立させ、公安調査庁をつくった。ぼくは、戦争中の「特高警察」を連想した。そして、吉田首相が保安隊員に対して、「新国軍の土台たれ」と訓示したというニュースは、「徴兵制」を予感させた。
さて、三田細胞 は「明日豊かな塾生活のために 」というタブロイド版4面の機関紙をガリ板刷り週刊で発行していた。ぼくは、慶大新聞で学んだ技術を生かしてレイアウトなどを手伝っていたのが、ある日編集の責任者になっていた。
こうして、「慶新」で論説やコラムを書きまくり、裏で「豊塾 」の編集をやるという生活が始まった。「慶新」の方は大世帯で仕事の分担もはっきりしていたけれど、「豊塾」の方は1人が鉄筆で原紙を切り、もう1人がインクまみれになって刷リあげる。しかも、週刊である。いつも徹夜になった。
「 慶新」も徹夜をしたけれど、早朝、4号館前の芝生に寝そべって、下のパン屋の焼き上がりの香りを楽しむゆとりがあった。
しかし、「豊塾」の方は刷り上がった新聞を三田まで手分けして運ばなければならない。ぼくの通学鞄はいつもパンパン、授業のテキストは自宅の机の上ということになる。
そんな中で、仲間の一人が査問会議に呼ばれた。彼の私生活が本人にその意志がなくても、客観的には、利敵行為であり、「裏切り」「スパイ」にあたるというのだが、この論理を、ぼくの感性は、どうしても受け入れることが出来なかった。
そして、読書会仲間の自殺未遂事件が起きた。
非合法の地下活動だから無理は承知だったけれども、大人たちの“政治”的な価値判断が、若い仲間たちの、やわらかな心に傷を負わせ、その恋までも、ゆがめてしまったこともあった。苦い想い出である。
こんなこともあった。
あの頃、ぼくはどんなに忙しくても、土曜日の午後は、恋人とデートと決めていた。殺伐とした日常の中で唯一安らぐ時間だった。
その日、僕はポケットマネーをはたいてクリスマスプレゼントを用意したのだが「ありがとう」と受け取った彼女からは何も返って来なかった。そして、別れ際に「恥ずかしいから、お家に帰ってから開けてネ」と封筒を渡された。
待ちきれず、電車の中で開けてみると、中味は、自分で編んだピンクの靴下、靴下の中味は、12月24日の箱根湯本行きの小田急ロマンスカーの切符だった。
――
塔の沢の和風旅館は閑散としていた。毎週のデートで、いつも、どこか人目のない所で二人だけで、、、とねがっていたはずなのに、夕食が終わってしまうと奥の部屋に並んで敷かれた布団を眺めながら、もうどうしていいのかわからない。
どちらからともなく立ち上がって、階下へ。
二人の目が輝いたのは、ホールの隅に卓球台をみつけた時だった。
「やる? 」 「うん!」
それから二人は、ひたすら小さな白球を追った。何時間も。クリスマスだから寒かったはずなのに、汗びっしょりになっていた。
そして、、、、儀式はあっけなく終わった。
二人とも初体験だった。
恩地日出夫 (1955年卒・ 映画監督)