▶ 2012年10月号 目次
悪さ加減の競い合い
橋本 大二郎(前高知県知事・早稲田大学大学院客員教授)
大学の同窓にあたるマスコミ人から、政治は悪さ加減の競い合いだという、福沢諭吉の言葉を教わったことがある。政治を高尚なものと受けとめて、どちらが良いかと目を凝らすと、どっちもひどすぎると政治に愛想を尽かすことになる。そうではなくて、どっちの悪さ加減がひどいかと上から目線で見れば、こちらがまだましかと思えて、政治に愛想を尽かさなくてすむという、福沢先生らしい皮肉を込めた言葉だ。
競い合いと言えば、消費税の増税をめぐって、野田さんと小沢さんの競い合いがあった。増税はマニフェスト違反だと批判する小沢一派に対して、野田サイドからは、埋蔵金が幾らでもあると大風呂敷を広げたのも、政権交代後に実権を振るっていたのも、当の小沢さんじゃないかと批判が浴びせられる。
一方、野田さんは、決められる政治の必要性を唱えるが、マニフェストに掲げた八ッ場ダムの建設中止など、大型公共事業の廃止削減は、民主党政権の判断で決められる事柄だった。ところが、野田政権になってから、大型事業の凍結を次々と解除して、それだけでも兆単位の財政支出を余儀なくしておきながら、マニフェストになかった消費税の増税だけを取り上げて、決められる政治を訴えるのは、余りに言葉遊びが過ぎないかと思う。
ただ、小沢さんが正論を吐いたとしても、あなたには言われたくないというのが大方の国民の本音なので、悪さ加減の競い合いでは初めから勝負がついていた。
続いては、野田さんと谷垣さんの党首同士の競い合いだが、三党合意という双方にとっての人質を、どう扱うかが勝負の分かれ目だった。合意が破棄されたら政権は持たないが、一方、合意を破棄したら、自民党が国民の批判を受けかねない。その意味で三党合意は、双方にとっての人質だった。
たまたまその時期に、高句麗と百済の興亡を描いた、韓流の歴史ドラマを見ていたら、かりそめの和平のため百済との間で人質を交換した高句麗の王が、次の戦いを逡巡する場面が出てきた。この膠着状態を破るため高句麗の策士が提案したのは、百済から取った人質を殺すことだった。そうすれば、百済に人質に取られた高句麗王の従弟も殺されるが、王は人質のくびきから解き放たれて、百済に対して勝負に出られるからだ。
三党合意の後、よもや人質を殺すことはしないだろうと考えた民主党は、採決の先延ばしを図ってくる。この時点で、合意を破棄した時に受ける批判という、人質の命には目もくれず、谷垣さんが三党合意を破棄していれば、確実に野田さんの首を取れた。しかし、マスコミは一斉に、ここに至って三党合意を破棄したら、自民党は国民からしっぺ返しを受けると書き立てた。その結果、谷垣さんは、近いうちにという言葉と引き換えに、消費税の増税を決める法案を成立させた。
合意を破棄したら国民から、悪さ加減は民主党以上だと見られかねない、そんな漠然とした恐怖心に勝てなかった谷垣さんは、総裁選に出ることも出来なかった。 結局、民主党の代表選も自民党の総裁選も、政策的な争点がないまま、よく言えば選挙の顔を選ぶ選挙、悪く言えばここでも悪さ加減の競い合いに終始した。 そこに登場したのが日本維新の会だが、これもまた、悪さ加減の競い合いに参戦しつつある。一つの理由は、政党の要件を整えるために現職の国会議員が必要なことで、お釈迦様役の橋下さんの降ろす蜘蛛の糸に、カンダタたちがぶら下がるが、その浅ましさは国民に透けて見える。また、資金がない分を話題作りで補おうと、舞台回しに芸者が呼ばれるが、年増芸者の芸は、悪さ加減の部類に入らないかと気がかりだ。
さらに気がかりなのが、政策集として発表された維新八策だ。維新を名乗る手前、龍馬の船中八策にならったのだろうが、本家の船中八策は、全文で201文字しかない簡潔な宣言だ。だから、維新八策も、「日本国憲法を廃して新憲法を制定する」、「国の形を中央集権から分権型に改める」など簡潔な宣言にとどめる手もあったが、既成政党との違いを意識するあまり、地方交付税を廃止して消費税を全て地方税にする案など、細かい隘路に陥っている。
そんな細かいことは抜きにして、国の形を変えるとさえ言っていれば、自民と民主の悪さ加減の競い合いの中で、新鮮な存在であり続けることが出来る。しかし、各論に入っていくと、いずれ悪さ加減の競い合いに巻き込まれてしまう。
アバウトでも明快な宣言で、悪さ加減の競い合いから抜け出すか、それとも、細かい政策を並べて悪さ比べに巻き込まれるか、橋下さんの胆力が問われている。
橋本 大二郎(前高知県知事・早稲田大学大学院客員教授)