▶ 2012年10月号 目次
いま、改めて戦後を思うーー貧しかったけれど幸福だったーー
⑪卒業、そして就職
恩地日出夫 (1955年卒・ 映画監督)
敗戦から10年、経済白書は、「もはや、戦後ではない」と書いた。
マスコミも、空襲直後と再建した街の写真を並べて「焼け跡もひと昔」と書き、街頭テレビでは、力道山のプロレスが人気を集めていた。
ぼくは、4年生になって「卒業」「就職」の時期をむかえていたのだが、ある日突然「もしかすると卒業のための単位が足りなくなるかもしれない」ということに気づいた。
というのは、卒業論文は学生運動で睡眠時間も充分ではない中で書き上げて提出済みだったのだが、ぼくが属していたゼミは、白石孝助教授の白石ゼミだった。
このゼミは、就職率100%を誇る「優秀」なゼミで、白石さんは、パリパリのケインズ流近代経済学の新鋭だった。
ところが、読書会で唯物論を学び、運動の中でマルクスに傾倒していたぼくは、当然のように、「近経」ではなく「マル経」で論文を書いてしまった。
「第二次世界大戦後のアメリカ経済と日本経済の関係についての一考察」という題名だった。当時発表されたばかりのスターリン論文などを引用して、共産党の理論雑誌にのせてもいいような中味だった。
「これはまずい」と気がついて、いろいろ単位を計算するのだが、卒論の単位がないと、やっぱり足りない。
就職活動の方は「シナリオ水曜会」という同好会で書いているうちに、映画にのめり込んでいたので、東宝と東映にしぼって、あらゆるコネを動員していた。もちろん結果はわからないが、学生運動の経歴さえバレなければ、なんとかなりそうな所まできていたのだが、かんじんの卒業がダメだとすると、、、、、、
この年、アメリカはビキニ環礁で水爆実験をやり、その死の灰をかぶったマグロ漁船の第五福竜丸が帰港、大事件になった。たぶん、「放射能」という言葉が一般の人の口の端にのぼった最初だったと思う。
平和運動は、原水爆禁止にむけて一気に盛り上がり、ぼくも忙しく雑用に追われながら運動の中に身を置いていることに誇りを感じていた。そして、慶大新聞の論説やコラムを書きまくり、もともと左翼的だった三田新聞と比較して、「最近は"慶新"の方がラジカルだ」などと言われて喜んだりしていたが、基本は地下組織による武装闘争だった。
学生運動は、’60年代後半から、多くのセクトに別れて対立、抗争をくりかえして連合赤軍につながることになるのだが、当時は、その一つ前の段階で、連合軍によって非合法化された日本共産党によって単一的に指導されていた。中央の指令は絶対であり、それは、すべてに優先した。
ところが、卒業の年、’55年正月元旦の党機関紙アカハタは、極左冒険主義を自己批判し武装闘争の放棄を宣言した。
「ええ!? 何だよこれ!!」というのが僕の正直な感想だった。
いま、60年前を振り返って考えると、当時の党幹部の中で、国際派と主流派の抗争があり、その中での方針変更だったという説明や、六全協の決定に至るプロセスなど「政治」の動きとしては理解できる。
しかし、「すべてを犠牲にしても、、、」と思い込んでいた21歳の心には、想像以上の大きな傷となった。
ぼくは混乱し、連夜、泥酔して巷をさまよい、自暴自棄になり、一番大切だと思っていた恋人とも破局を迎えてしまった。
まさに地獄だった。
そんなある日、ゼミの白石助教授から呼び出しがあった。恐る恐る研究室のドアを開けると笑顔の白石さんが迎えてくれた。
「卒論、読ましてもらったよ。面白かったけど、ぼくには評価はできないので、遊部教授(マルクス経済学)にまわすことにしました。…ただし、単位は、僕の責任であげます。」
万歳である。評価などどうでもいい。これで卒業できる。まさに、地獄で仏だった。
こうして、卒業、そして、就職ということになるのだが、振り返ってみると、この時共産党の裏切りに出会って、政治を通して世の中を良くするなどということが、夢物語だと知ったことが現在のぼくにつながったのだとつくづく思う。
何故か、映画にのめり込み、論理ではなく、感性を通して世の中とかかわる道を選んでいたぼくは、自然に「政治」と決別し、混乱してはいたけれど、素直な気持ちで、東宝撮影所の門をくぐることになった。
’55年4月のことである。
恩地日出夫 (1955年卒・ 映画監督)