▶ 2012年10月号 目次
旅と人間――パリ/セーヌ川とエッフェル塔――
山岸 健(慶應大学名誉教授)
ここからそこへ、かなたへ、さまざまな旅があるが、生き生きとした状態で生存感が体験されるような旅があるし、よみがえるような思いがする旅がある。人生の旅びとの生活と人生はこうした旅によって力づけられてきたのであり、驚きと感激が体験されるような旅によって一日、一日が意味づけられてきたのである。
旅の思い出は、さまざまな思い出のなかでも特別な思い出に数えられるのではないだろうか。おそらく誰にも記念すべき旅があるのではないかと思う。誰といつ、どこへ。さまざまな旅は、人生を旅する人びとそれぞれの生成と存在の証明、生存の証明なのである。家族旅行の特別な思い出がある。
光の都と呼ばれてきたパリ、『失われた時を求めて』で名高いプルーストは、パリを石の都と呼んでいる。『パサージュ論』などで知られるベンヤミンは、パリを鏡の都と呼ぶ。
パリとセーヌ川は印象派の画家たちによって発見された、という表現があるが、そのとおりだと思う。印象派の第1回展覧会がパリで開かれたのは、1874年のことだ。鉄骨ガラス張りの通路がパリの都市空間に姿を現したのは、1820年代のことである。こうした通路をパサージュという。
芸術、学術、文化、文明のさまざまな場面と領域、舞台、歴史において特別な位置を占めてきたパリは、これまで世界を旅する人びとにとってあこがれの都市、念願の都市だったといえるだろう。
パリは万国博覧会の歴史においても注目されてきた都市だ。エッフェル塔の完成は1889年、万博ゆかりの塔だ。川に架かる橋の技師だったエッフェルは大地から空に向かってみごとな橋、塔をつくり上げたのである。この塔は鉄の文明そのものだが、塔の完成にともなってパリには新たな視点とまなざし、風景と景観の焦点、パリのシンボルが生まれたのである。
今日、パリはセーヌ川とエッフェル塔によって意味づけられて=方向づけられているが、パリの起点、母胎となってきたのは、セーヌ川に姿を見せているシテ島とサン=ルイ島だ。パリではセーヌ川の上流から下流に向かって右手をセーヌ右岸、左手をセーヌ左岸という。このふたつの島は隣接しているが、サン=ルイ島が上流方向に位置している。バルザックはこのサン=ルイ島をパリのヴェネツィアと称している。
セーヌ川の流れに矢印が入っているパリの地図がある。シテ島のノートル=ダム寺院の塔の屋上からの眺望はすばらしい。セーヌ川の下流方向、セーヌ左岸のかなたにエッフェル塔が見える。右岸のかなたにはモンマルトルの丘が望まれる。
パリは石の都だが、セーヌ川の上流方向に位置しているヴァンセンヌの森と下流方向にその姿を見せているブーローニュの森、こうしたふたつの森によってパリを森の都と呼ぶこともできるだろう。ブーローニュの森にはエッフェル塔がその姿を覗かせている地点がある。
パリのふところのもっとも深いトポス(場所、ところ)ということになるとシテ島のノートル=ダム寺院(ロダンはこの寺院を石の森と呼ぶ)とセーヌ川の右岸、左岸のいくつかの墓地(トポス)に注目しなければならない。その代表格は右岸のペール=ラシェーズ墓地だ。社会学の創始者、命名者、コントやバルザックの墓はこの墓地にある。セーヌ左岸のパンテオンにはルソーなどの墓がある。パンテオンは建造物だ。
1991年11月中旬、ヨーロッパ各地を列車で旅していた私たち、家族は、スイスからフランスへ。セーヌ右岸のリヨン駅に到着した。リヨンや南フランス方面などへの列車の発着駅だ。私たちはリヨン駅からタクシーでサン=ルイ島のホテル・サン=ルイに向かった。到着して小休止、私たちはさっそくシテ島のノートル=ダム、聖母マリアの寺院を訪れたが、この石の森を訪れた感激は消え去らない。
ホテル・サン=ルイに二泊してパリの光と風、パリの色と形と音、人びとの生活などに触れながら、私たちはセーヌ左岸のイタリー広場に面したオリオンに移って、オリオンの私たちの居室、居場所(トポス)をパリでの日常生活の拠点として、ほぼ一ヵ月のあいだ私たちは家族三人で旅びとではありながらもパリで日常生活を営んだのである。
1991年秋から初冬にかけてのパリでの私たちの日常生活と旅の日々こそ私たちの家族の生活史の忘れることができない大切な晴れがましいパリである。カミュが感性を磨くための舞台装置と呼んだパリは、いまもなお私たちのなかで生きつづけている。
山岸 健(慶應大学名誉教授)
=スケッチは、パリ、セーヌ左岸、サン・ミッシェル通りのセーヌ川に近い芸術広場のカフェテラスにて。パリのそこ、ここで見られるモーリス広告塔。