▶ 2012年11月号 目次
iPS大誤報はなぜ起きた
木村良一
マスコミ史上に残る赤っ恥である。読売新聞が特ダネとして1面トップで大きく伝え、それを共同通信が追いかけ、配信先の新聞社やテレビ局が報じた。ところがそのニュースがでたらめだった。iPS細胞(人工多能性幹細胞)から作った心筋細胞を患者に移植したという森口尚史氏の虚偽の発表をめぐる誤報騒動だ。
嘘でなかったらiPS細胞の世界初の臨床応用となったはずだ。しかも読売が報じた10月11日は、iPS細胞を開発した山中伸弥・京都大学教授がノーベル生理学・医学賞に決まった直後でもあり、ニュース性は高かった。
それにしてもなぜ、こんな前代未聞の大誤報が生まれてしまったのだろうか。
読売は森口氏の説明を虚偽と判断し、10月13日付朝刊1ページを割いて「検証 『iPS心筋移植』報道」という記事を掲載した。それによると、読売の取材に対し、森口氏はiPS細胞から心筋細胞を作り、自分で患者の心臓に注射するなどの医療行為を行ったかのような説明をした。
虚偽が発覚したのは、森口氏が「客員講師」を名乗っていたハーバード大とその関連のマサチューセッツ総合病院が「森口氏の臨床研究を倫理委員会が承認した事実はないし、手術も行われていない」との声明を発表したのが、きっけだった。それゆえハーバード大やマサチューセッツ総合病院に裏付け取材をしていれば、誤報は防げたはずだ。
さらに森口氏の出身の東京医科歯科大にも確認していれば、医師の国家資格がないことも分かっただろう。森口氏は東京医科歯科大医学部保健衛生学科を卒業して看護師の国家資格を取得しているが、医師免許は持っていない。
肝心のiPS細胞の作製については、遺伝子を使わずにタンパク質と薬剤で作ったと説明していたというが、読売の記事を読んで疑問視する専門家は多い。客観的に判断できる専門家の意見を集める取材が欠けていた。
森口氏には今回問題となった以外にも実態の不明な研究が多い。読売を初めとする各マスコミは過去にこれらを報じているが、真偽について徹底的検証が必要だ。読売は2回目の検証記事(10月26日付朝刊)で、5本の過去記事について誤報と判断し「過去の記事は森口氏にアカデミズムを上っていくための『不実の階段』を与えた」などと反省している。
このように森口氏の言動には問題点が多く、読売は1回目の検証記事の中で「何度か、虚偽に気付く機会はあった。取材を積み重ねていれば、今回の誤報は避けられただろう」と結論付けている。その通りだが、問題はなぜ、それができなかったかだ。
共同通信も12日に「通信社として速報を重視するあまり、専門知識が必要とされる科学分野での確認がしっかりできないまま報じてしまった」との検証記事を配信している。
通信社に限らず、速報性はメディアにとって生命線だ。なかでも特ダネは同業他社と取材のスピードを競う。一般的に特ダネをつかむと記者は焦る。その特ダネが大きければ大きいほど、焦りは大きくなる。
iPS細胞の初の臨床応用という〝特ダネ〟で読売が、どれだけ焦ったかは分からない。ただ読売の検証記事によれば、記者は9月19日に森口氏に取材を持ちけられ、10月4日に詳細を取材。5日から9日にかけて取材内容が次長(デスク)、部長へと報告され、11日付朝刊ですぐに報じられた。
森口氏から情報提供を受けた記者は「動物実験の論文が未公表」「iPS細胞由来の細胞移植がハーバード大で許可されるのか」など6つの疑問点をデスクにメールで報告したが、双方が「デスクの指示がないのは取材が十分だからだろう」「記者が裏付けを取ったはず」と誤解した(2回目の検証記事)という。
この誤解が生じるなかで山中さんのノーベル賞受賞が8日にあり、これがニュース価値を引き上げ、焦りが組織的に広がった可能性がある。
焦りが生じると、裏付け取材が甘くなり、誤報という痛手を負いかねない。とくに事件報道では焦りが出てきたと感じたら、一度取材をやめて冷静な判断ができる状態を取り戻すことが重要になる。
とりわけ複数の記者がひとつのニュースを追いかけるチーム取材の場合は、矛盾点が出てきたら、立ち止まる勇気が求められる。チームの多数意見が、常に正しいとはかぎらない。チームのひとりひとりが、意見を言いやすい環境を作り出す必要がある。そうすればデスクと現場記者との誤解もなくなるだろう。
「iPS誤報」はこんなところから起きた気がしてならない。
(ジャーナリスト 木村良一)