▶ 2012年11月号 目次

“世界初iPS細胞臨床応用”誤報が象徴するもの

隈本邦彦


東大特任研究員(当時)の森口尚志氏による“世界初のiPS細胞臨床応用”については、読売新聞1面トップの大誤報と、それに続く訂正・お詫び、各社の検証報道など、一連の騒動が続いている。「オオカミ中年」などと揶揄され、週刊誌やワイドショーの餌食となっている森口氏も森口氏だが、彼の売り込みを真に受けて報道したメディア側の責任も重大だ。
と言いたいところだが、実は私は騙された記者に少し同情している。私がまだ駆け出しの科学記者だった頃(1980年代後半)に同じネタを提供されたら同じ失敗をしなかったか自信はないからだ。今回だってもし森口氏の“業績”が、これほど大きなネタでなければ問題が発覚しなかった可能性が高い。現に、彼が過去にメディアに売り込んだ“業績”のいくつかは、(今回、読売の軽率さを批判している社を含め)各社の紙面を何度も飾っているのである。ことほど左様に、メディアの記者たちは、旧帝大の肩書や海外の有力雑誌の権威に弱いのだ。
 NHKでも医学ニュースの場合、学会発表の段階で取り上げることがしばしばある。学会発表は、まだ誰の査読(複数の研究者が内容をチェックする手続き)も受けていないのだから、その段階で大きな記事にするのは危険なことだ。当然、誰か権威者などに談話をとって評価してもらうのだが、現実には、談話をとる先を当の研究者に紹介してもらったりするわけだから誠にお粗末な次第である。そうした無謀な報道が許された理由の一つは、やはり00大学とか、国立00研究所といったその研究者が所属する組織の権威を信じていたからだったと思う。もし市中の自称研究者が同じような学会発表をしても、そのまま載せることはおそらくない。
 さすがに科学記者としての経験を積んでくると、私も学会発表レベルでは簡単に書いてはいけないことに気づいた。例えば子どもの病気の「川崎病」の原因については過去おそらく10くらいの説が学会発表され、そのつど大々的に報道されたが、そのすべてが「ハズレ」であった。
 最近の医学記事を見ると、学会発表がそのまま記事になることは減った。その代わりによく登場するようになったのが「00ジャーナルに(海外の有力雑誌名)に掲載される」という一言である。もちろん海外の有力雑誌への掲載は、査読を経て価値が認められたものということで、学会発表よりかなり信頼がおける。ただこれは記者たちの進歩というより、各雑誌の電子版が整備され、簡単にアクセスできるようになった環境の変化のほうが大きいのかもしれない。