▶ 2012年11月号 目次
いま、改めて戦後を思うーー貧しかったけれど幸福だったーー ⑫エピローグ
恩地日出夫
ぼくが就職した東宝撮影所は「七人の侍」と「ゴジラ」を大ヒットさせた直後で、所内の空気は高揚していたが、東宝という会社は、しっかり「戦後」をひきずっていた。
人事担当役員は新入社員を集めてこう演説した。「わが社は戦後の大争議を通して存亡の危機に瀕した。諸君の中に過去、現在、未来にわたって共産主義に賛成する人間がいたら、入社決定を取り消すから、すぐに、ここを出て行ってもらいたい」
この「大争議」というのは、読売新聞のストライキと並んで戦後労働運動を代表する東宝ストのことで、撮影所の仮処分の日には、警官2000人、米軍戦車7台、飛行機3機が出動、「こなかったのは軍艦だけ」といわれた。
撮影所は、「七人の侍」や「ゴジラ」で高揚した気分になりながら、こうした戦後の傷もひきずっていたことになる。
そして、この重役の発言は単なるオドシではなかった。同期入社の滝沢昌夫は、東大卒の助監督志望だったのだが、公安調査庁からの通報で’52年メーデーで検挙されていたという過去がバレて、一生人事畑でサラリーマンをやることになる。
助監督修行は徒弟制度そのものだった。先輩には絶対服従、撮影助手も照明助手も新人には平手打ちがとんだが、辛いだけのもでもなかった。こんなこともあった。
22才のぼくは生意気盛り、ある日大部屋のボスから呼び出しがかかった。すると、後に植木等の無責任シリーズで大ヒットをとばすことになる古沢憲吾助監督が、「お前は行かなくていい」と代わりに出かけて行って話をつけてきてくれた。イジメもあったけれど1200人ほどいたスタッフは、なんとなく温かい仲間意識でむすばれていた。
そして、かけだし助監督のぼくは、休みは正月の3日間だけという過酷な労働条件で走り回り、酒を飲み、夜中にシナリオを書いて助監督の同人雑誌にのせた。
後に大監督になった岡本喜八助監督にはカチンコの打ちかたから厳しく仕込まれたが、同人雑誌が出ると、予定表の裏に書いた批評がロッカーに入っていた。
「愚見ー大変ナ努力ノアトガ見エルシ決シテ助監督ノ作品トシテ恥ズカシクナイ出来バエト思ウ。シカシ、面白味ガウスイノハドウシテダロウ…」
こうした習作シナリオの一本が重役の目に止まって監督昇進につながるのだが、それは5年後の1960年のことである。
この年、日本は"60年安保"の嵐が吹き荒れた。政治に絶望したはずのぼくも、何故かじっとして居られず、クビを覚悟で運動の先頭にたち、安保批判の会のデモで映画人の責任者になった。
映画人のデモは300人、500人、1000人とふくれあがった。元気に大声をあげていたのが、後年テレビで水戸黄門をやった西村晃、大先輩の今井正、八木安太郎、新東宝の新人池内淳子、、
クライマックスはいきなりやってきた。
6月15日、南門から国会に入った学生と警察機動隊が衝突、東大生樺美智子が死んだ。
「学生4000人、国会内で抗議集会、警官隊、暴行のすえ未明までに学生など182人を逮捕(負傷者1000人を超す)」(近代日本総合年表・岩波書店刊)
翌日の新聞に、同級生、本田靖春の名前があった。
「私はこの目で見た
にくしみの激突
でも指導者にも責任
ー本田靖春記者ー 」
読売新聞社会面トップの見出しである。
さっそく、電話をかけると、
「あんなの俺の記事じゃない。デスクがなおしたんだ。冗談じゃないよ。現場にいたのは、この俺なんだ」「でも朝日にくらべたら…」「あんなの新聞じゃないよ」
三日後、ぼくは国会近くに座り込んで安保条約の自然成立を見守った。夜明け、皇居のお堀端を歩きながら、ぼくは言いようのない虚しさを感じていた。
霧が流れていた。
ーこうして、ぼくの戦後は終わった。
そして、10月、第一回監督作品のクランクイン数日前、新宿で大島渚の「日本の夜と霧」を見終わって劇場を出ると号外が流れていた。社会党の浅沼委員長が右翼少年に刺殺されたという。翌日、大島の「夜と霧」は上映中止となった。
恩地日出夫 (1955年卒・ 映画監督)