▶ 2013年1月号 目次
人生と旅/川の旅 <大地の芸術祭>とともに
山岸 健
柳田國男は、汽車の窓を風景の窓と呼ぶ。変わりゆく車窓風景ほどダイナミックで楽しい風景はないだろう。だいぶ以前のことだが、窓を開けて景色を楽しんでいた時、渓流の水音が耳に触れた汽車の窓があった。窓といってもさまざまだが、窓はなかば額縁なのだ。
フランスの大西洋岸の港町、ル=アーヴルに大西洋の船旅を終えて到着した私は、ル=アーヴルからパリまで汽車の旅を楽しむ。車窓にはまるで印象派の絵画を見ているような風景が浮かんだのである。セーヌ川の景色を体験しながら私はパリのサン=ラザール駅に到着する。――これは永井荷風の『ふらんす物語』の一シーンだ。
東京の荷風は、隅田川の流れを目にしてパリのセーヌ川をなつかしむ。荷風の小説、『すみだ川』は、この川が主人公となっている小説である。
パリとセーヌ川は、印象派の画家たちによって発見されたのである。『パンセ』を著したパスカルは、川は人を好きなところへ連れていってくれる道である、という。
川とは矢印そのものであり、沿岸や流域のさまざまな風土や風景、人情や人びとの日常生活、地理的歴史的世界と独特の環境が体験される注目に値する水の道なのである。
柳田國男は誰にも心にかかっている山川があるという。川は故郷の大地を飾っている大切な風景であり、風景の目、動きゆくまなざしなのである。
信州、信濃国を代表する千曲川、長野市で犀川が千曲川に合流している。北アルプスの槍ガ岳から流れ出た梓川は、美しい景色と心地よい気分が体験される上高地を流れて、いくつかのダムを経て、安曇野に姿を現す。奈良井川などが梓川に合流して、犀川が生まれる。山峡を流れた犀川は、善光寺平に流れ出て、千曲川に合流する。川とは川と川なのであり、人は人と人なのだ。人間と人間との触れ合いとつながり、交わり、絆、縁、人間関係によって、また風景や音風景、いわば環境の音などによって人生を旅しつづけている人間は、いずこにおいても支えられてきたのである。
人生の日々において、どのような旅を体験したのか、どのような大地や地方でどんな川や集落、人びとなどが体験されたのかということは重要だ。風景や音風景、人びとの暮らしや風俗、人情、旅の喜びと楽しみは、人びとの生活史と人生にさまざまな影を落としているのである。さまざまな旅と旅体験によって人生と呼ばれるおおいなるドラマが彩られてきたことは、おそらく誰もが認めるところだろう。
千曲川は長野県の飯山あたりを流れて、県境を過ぎると、河川名が変わり、信濃川となる。信濃川は妻(つま)有(り)地方を流れて、小千谷を過ぎて、新潟県の中越地方の中心都市、長岡に達し、穀倉地帯、越後平野を貫流して、新潟市へ。信濃川は長い旅を終えて、日本海に流れ注ぐ。新潟港から佐渡へ向かう汽船は、信濃川の河口から海原に出て、日本海を航行する。
妻有地方の広域にわたる自治体と大地が舞台と会場となって、2000年を初回として三年に一度、<大地の芸術祭>、アート・トリエンナーレが開催されてきた。2012年の第5回<大地の芸術祭>は、年次ごとに増加してきた芸術作品をふまえて、これまでの最大規模の大地と集落、空家、廃校、美術館などが作品の展示会場や作品そのものとなった芸術祭だった。これまで<大地の芸術祭>を毎回、訪れてきたが、よみがえった大地と人びとの暮らし、人情、新たな風景と音風景、ローカル・カルチャーなどが体験されたそのつどの<大地の芸術祭>への旅は、まことに楽しく、魅力的だった。
芸術作品は至上の人間的な文化である。2012年9月の旅では私たちは、十日町市松代の芝峠の宿で美しい虹を鑑賞したのである。
慶應義塾大学 名誉教授 山岸 健
=写真は、<大地の芸術祭>の松代(まつだい)ステージ。イリヤ/エミリア・カバコフ夫妻の作品<棚田>(1999年-2000年)。里山の棚田に姿を見せている作品である