▶ 2013年1月号 目次
グッドバイ・パパ
井上郁
死の当日、父は救急車に乗せられて茅ヶ崎にある病院を出たのだそうだ。
「意識はあったんでしょうか?」と問う私に主治医だったその医師は答えた。
「声をかければ、はいとか、大丈夫ですとか、答えはありましたよ」
父は死んだ状態で鎌倉の自宅に運ばれたのではないか?と、勘ぐっていた私は、
「そうですか」と言った。
知りたいことがあったというのではない。ただ、普通に知りたかった。私が、父と揉めていなかったら、当たり前に知ることのできたであろうことを、知りたかった。
「最初に先生に診ていただいたときの父は、どんな状態だったのでしょうか?」
父が死んでから二年と半月が過ぎていた。
「親子関係の継続は不可能。その原因を作ったのは井上都自身である。信頼関係は破壊された。」
そんな文書を父の弁護士からもらってから数えると、三年半が過ぎたことになるその夏の終わり、私は茅ヶ崎にある父を看取ってくださった医師のいる病院を訪ねて行った。
父の肺癌はすでにステージⅣにまで進行しており手遅れだったこと、手術も放射線治療も出来なかったこと、残された治療法は抗癌剤治療だけであったこと。
抗癌剤治療をするためには、まず肺に溜まっていた胸水を抜き取らなくてはならなかったこと。
「胸水が溜まっていたので呼吸が苦しくはなっていたわけですが、胸水の中には栄養分もかなり含まれていまして、抜かないで治療できるならばそのほうがいいのですが、抗癌剤を打つためには早急に抜かなくてはならない。胸水を1リットル抜くということは、1キロの減量に等しい。井上さんの場合は、最初に1・5リットル、またすぐに1リットルの胸水を抜きましたから、2.5キロの体重が一気に落ちたことになる。体力的にはかなりきつかったと思います。抜いた後はもうフラフラでしたから。」
「先生の前で父は死についてなにか話したことはありませんか?どんな些細なことでも構わないんですが」
「プライベートなお話はしませんでしたねえ。最初からご自分の死に関しては覚悟をしておられたように思います。」
「私は幼いときから父が死ぬのが怖くて仕方がなかったんです。父は自分の死を受け入れることが出来ないんじゃないかとずっと思っていまして・。自分が死ぬなんて我慢ならないと思うんじゃないかと・・先生にはそういわなくても・・・」
「先生からみて父はどんな患者だったのでしょうか?なにかお困りになったことはありませんでしたか?」
「患者さんとしてはパーフェクトでした。とにかく自分は書きたい、仕事をしたい。だから治療は先生方にすべてお任せいたしますと、最初から最期までそれは一貫しておられました。井上さんは書くときに徹底的にお調べになる方なんでしょう?だから、おっしゃっていましたよ。いつもの自分ならば肺癌について可能な限り調べるはずなんだけれど、いつもの僕じゃないんですっておっしゃっていましたよ。まだまだ書きたいことがあるから、残された時間はすべて書くことに費やしたいと、そうお考えになられていたようにお見受けしました。」
「こんなに早く死ぬと思わなかったので、癌でも父くらいの年齢になったら進行も遅くて治らないまでも、癌と共存して長く生きておられる方もいますよね?だから、父もきっとそうだろうと勝手に思っていまして・・。会いたくないと言われたからというのもあったのですが、あたしも意地になっていまして、会いに行こうと思えば行けないことなんかなかったのですけれど、行かないままになってしまって・・本当に後悔しています。いまごろ遅いんですけれど、嫌がられてもなんでも強引にでもなんでも会いに行けばよかったと後悔しています。」
「肺癌は大きく分けて、小細胞癌とその他の癌に分けられていて、井上さんの肺癌は腺癌というタイプで、その他のほうの癌ですね。腺癌は、個人差はもちろんありますが、一般的には進行の遅い癌、だけど、抗癌剤が効きにくいと考えられています。特に井上さんの腺癌は、腺癌の中でも胸水の溜まりやすい癌で、このタイプは特に抗癌剤が効きにくい。胸水のあまり溜まらないタイプの場合、1年、1年半と頑張っておられる患者さんもおられますが、井上さんの場合は、抗癌剤がほとんど効かなかった。」
一〇月の末に肺癌と判ってから、その年の年末年始には一度元気になったようだったが、年があけてしばらくしてから、父は背中の痛みを訴えるようになったようだった。
「その痛みは癌がどのようになったために起こった痛みだったのでしょう?」
「どこが原発癌かを調べようと思ったのですが、だいたい写真に撮ると原発癌のところは白くなって強く残るんですが、井上さんの場合はそれがはっきり出なかった。膜のところに、右肺の下のほうの膜のところが他よりも膨らんで写ってみえてるんです。おそらくそこが原発癌だと考えられる。背中の痛みを訴えられていたので調べてみましたら、もう癌細胞が食道に浸潤していまして、癌細胞が大きく食道を塞ぎ、むき出しになっていたんです。背中の痛みもここからきているのではないかと。このままだとものが食べられませんから、○○○○という機械を食道に入れて拡げる処置をしようと外科とも相談しまして、ただこの機械は、食道がかなり狭窄しないと入れられないんです。胃に落っこちちゃいますから。だから、狭窄が進むのを待つしかない。患者さんも苦しいし、こちらも悪くなるのを待っているような状態で、このときが一番苦しかったのではないかと・・・。ようやくその処置を終えても、今度はそこが痛んだり・・もうだんだんものを食べる意欲もなくなってきて、うつらうつらする時間も増えてきまして、早くしないと、お家に帰ることが出来なくなるのではないかと、ご家族も不安になられて、ご自宅に帰ってご家族が点滴をすることが出来るように、ハートっていうんですけれど、胸のところに管を通す処置をして、四月九日の日に救急車でご自宅までお送りしたんです。」
父は、自宅に戻れたことを本当に喜んでいたそうだ。
「2階の寝室に担架で運んだんですけれど、階段を上るときにこう頭がどうしても上になってしまうでしょう。そうすると呼吸が止まってしまっていたんです。ご家族だけで看取りたいと、これも最初からのご希望でしたから、我々は引き上げたんですが、もしかしたら今日にでも・・と思って、すぐに駆けつけられるようにその夜は鎌倉にホテルをとって待機していようと、そう思っていました。おいとまするときに、ここ数日、もしかしたら今日にも・・ということもあり得ますと、そうお伝えして」
ちょうど1時間、1時間の話を終えて病院を出ると、駅に向かう道の途中に「救急入口」と書かれた扉があり、その前に救急車が停まっていた。急患があった直後なのだろうか、救急車のドアは開かれたままである。通りすがりに横目で中を窺いながら、私はすぐ先に見えているセブンイレブンに入りソフトクリームを買った。駅までの一〇分足らずの道のりをペロペロアイスを舐めながら、父を乗せた救急車はあの日この道を走ったのだろうかと、後ろを振り返り遠くなった病院をもう一度目にした。
元こまつ座代表 井上郁
(著者は井上ひさし氏の長女)