▶ 2013年3月号 目次
元NHKカメラマンの回想ーTVニュースの”草創期物語”上
岸本 勝
テレビ放送開始の頃
NHKが日本で初めてテレビ本放送を始めたのは、今から60年前の昭和28年2月1日からで、当時の受像機契約台数はわずか866台。一日正午から2回の放送をすると、新橋駅前広場に設置された街頭テレビを見る人達で、おすなおすなの人だかりができました。広場を見下ろせる高架の国鉄新橋駅のホームまで黒山の人だかりができました。その前年に広報写真担当カメラマンとしてNHKへ入社した私は、このテレビ開局の様子をスピードグラフィックで撮影し新時代到来に感動した。
放送開始当時のテレビニュースは、半切版ほどに引き伸ばした一枚写真を共同通信から提供を受け、あとはタイトルやニュース原稿を要約した文字情報のパターンをあたかも紙芝居の如く交互にイメージオルシコン・カメラで写し、時にはアナウーサ―の顔を写したりして放送したので、動画でないところから電気紙芝居と揶揄嘲笑された。動画を撮影する初代報道カメラマンは、ワーナーパーティニュースからきた田畑 雅氏と日映からきた三木 武氏で、両カメラマンによって撮影した、中国らの引揚者品川駅着の模様は『フイルムニュース・第1号』として昭和28年3月27日に放映された。
草創期のNHK広島テレビニュース
大阪・名古屋・福岡と次々とテレビ放送が始まり、NHK広島中央放送局が市内の比治山からテレビ電波を出したのは31年3月21日からで、カメラマンが広島に常駐したのは、昭和30年から1名、ローカルニュース放送開始前年の昭和33年からは2人制になった。私はその年に東京から転勤してきた。原子爆弾投下から13年たった広島の第一印象は、空が恐ろしく広いと感じた。それは紙屋町から八丁堀を除けばビルは極めて少なく、しかも、百メートル道路の街路樹も苗木のように小さく育ってなかったからだ。ここに立つと市内を囲む山々や似島が間近に見えて広島が盆地だなと思った。勤務したNHK広島中央放送局の局舎は、原爆を受けた鉄筋コンクリート2階建ての建物で幟町にあつた。まだ現像設備がないため撮影したフィルムは、幟町局舎から直接テレビ放送を出すことは出来ず、東京か緊急ニュースの場合は大阪中央放送局へ撮影したフィルムを送り放送していた。
2人の取材対象は中国5県で、月の半分以上は出張していた。出張には国鉄芸備線の“夜行ちどり“に良く乗った。早朝松江に着き島根県内を取材した後、米子・倉吉・鳥取・津山とまわり、岡山から山陽路というコースで撮影してきた。出張には、16ミリ映画カメラの“フィルモ”に三脚・照明用バッテリーライト・充電器・フィルムなどの撮影機材一式に着替えなど大荷物を一人で持っての旅でした。取材対象は主に取材計画がたてられる行事や季節もののひまネタで、撮影したフィルムは東京に送り本部から放送されました。途中で事故や事件の生ニュースを取材すると、撮影したフィルムは甲へん番号付きの国鉄貨物か、車掌か乗客へフィルム運びを委託して大阪へ送り、大阪中央放送局から放送されていました。当時、テレビ受信機は広島管内各局に配備されていましたが、テレビ回線が引かれていた広島と岡山以外では、テレビ映像を見ることが出来ない時代でした。山陰の各放送局では苦労して大阪方面にアンテナを向け電波を受信していましたが、取材した放送部内ではテレビのスィッチを入れても、ほとんど絵にならないノイズ画面で、かすかに聞こえる音声を聞いては、『音はすれども姿は見えず・ほんにお前は屁のようだ』と皮肉を言いながら放送を確認し喜びあっていた。ラジオのローカル放送にしか使われなかったヒマネタ原稿が、テレビフィルムが伴うと全中ニュースに放送されるところから、原稿を書いた記者も、テレビニュースへ提案したデスクも嬉しいことで、その夜は、日本酒で一杯となりました。こうゆう時代ですから、カメラマンが一人で列車に乗って取材に行くと、地元の市長が駅頭まで出迎えて挨拶したり、新聞はNHKテレビが取材に訪れたと、16ミリ映画カメラを使い私一人で撮影している模様の写真を添えて記事にされました。
岸本 勝(元NHKカメラマン)