▶ 2013年3月号 目次
元NHKカメラマンの回想ーTVニュースの”草創期物語”下
岸本 勝
中国管内局のテレビ開始
NHKは、広島中央放送局から昭和31年にテレビ電波を出した後、岡山放送局は32年12月から、鳥取放送局は34年3月から、松江放送局は34年10月から、防府(山口)放送局は34年6月からと、次々と総合テレビの放送が開始しました。
山口のテレビ放送開始を祝う番組は、県知事の開局を祝う挨拶と、山口県を紹介するテレビ開局記念番組の2本でした。知事の挨拶は、本部から5分35秒間撮影できる200フィート巻の光学式同時録音カメラのオリコンを借用し、防府放送局の西内正丸放送部長が知事へインタビューしました。まだ地方放送局はラジオ全盛時代でテレビ制作を経験した者は一人も居ない時代でしたから、従って撮影は勿論、光学録音も照明も一人で行いました。
テレビ開局記念番組は、山口市を始め、徳山・防府・宇部小野田・秋芳洞・秋吉台・下関・青海島・萩の各地をロケし、歴史・産業・観光を撮影しました。ロケには防府放送局から今西陽一郎PDも参加し、県の商工観光課が全面的に協力して呉れました。ロケ終了後、東京でテレビ制作を経験していた桜井 健氏が広島局へ転勤してきて、開局記念番組は30分間にまとめ東京から全中番組として放送しました。
屋上にラボ誕生
当時の広島中央放送局の局舎は、幟町で原子爆弾を受けた鉄筋コンクリート2階建ての建物でした。この局舎の屋上に木造の小屋を建て、そこに16ミリフィルムの枠現像設備とフィルム編集室を作りました。編集を終えたフィルムは、フィルム送像機を設置した比治山テレビ放送所に持ち込み、全中及び管中のTVニュースを放送しました。
撮影してきたフィルムは真っ暗な現像室の中で、15メートル四方の木枠へフィルムが重ならないように素早く巻き付けます。一つの木枠には100フィート(2分45秒間撮影可能)のフィルムを2本までしか巻き取れません。木枠に巻き取ったフィルムは真っ暗な中で、現像液・中間水洗液・定着液、それぞれの薬液を入れた木製浴槽に浸けて現像作業をし、水洗漕で薬液を流し出す。水に濡れた木枠に巻きつけられたフィルムは明るい部屋へ持ち出し、スポンジでフィルムの水分を取りながら乾燥した木枠へ巻き戻す。乾燥した木枠に巻かれたフィルムは、最後に高温になる温風乾燥機で乾かした。何れも神業的な手作業で、これらに使う薬液は摂氏20度を保つことが必要な事から、夏場は現像液や定着液の浴槽にビニール袋で包んだ氷を入れて液温を保った。暗室に続く編集室には当時としては珍しい幅15メートル高さ2メートルほどのGE製の大型エアコン設置していた。
この部屋でTVニュースを制作するメンバーは、カメラマン4名・コメント3名・編集2名・編集助手1名(女性)・現像2名・テロップ制作2名(女性)でした。建物が急ごしらえなら、人間も急ごしらえ、スタッフは担当が決まっているものの東京のTVニュースの各職場で半年ほどの経験しか持ってなく、それでも皆んな大ベテランのような自信家ばかりでした。緊急事件が発生すると、現像担当者までが、カメラやライトを持って取材に走り、帰ればスタッフ全員が編集や現像を手伝うように職域を越えてTVニュースの取材編集に当っていた。
比治山TV送信所にはまだテロップの送信機もアナウンサーの顔出しカメラも設置していなく16ミリフィルムでしか放送出来ない時代でした。従って(横幅12センチメートル?の)黒紙に白筆で文字を書いた小さなテロップも16ミリカメラのフィルモで撮影し、そのカットは各項目の頭につないで放送していました。そのフィルモは、撮影レンズとファインダーとの間は3.5センチメートル離れているので、普通にテロップを撮影するとテロップ文字の左側は、3センチ余りも欠けて写った。そこで我々はテロップをファンインダーで覗いた後、カメラを3.5センチ左側に移動してテロップを正確に撮影できる撮影台を独自で造るなど、様々の工夫をして放送にだしていた。
編集したフィルムは比治山のTV放送所に持ち込んで放送していた。追い込みが多く編集したフィルムはタクシーで運び、コメントは後から別のタクシーで追いかけて比治山放送所へ向かったものだ。
昭和35年には大手町に5階建ての新しい局舎が建ち、ラボには自動現像機が入って、比治山TV放送局にフィルムを持ち込まなくても遠方分離で、新局舎から放送出来るようになった。37年度には広島管内の各放送局もラボが誕生し、全中及びローカルのTVニュースの放送が出来るようになった。この段階で私は広島中央放送局を離れ、本部TVニュース部に転勤となった。
岸本 勝(元NHKカメラマン)