▶ 2013年4月号 目次
TVドキュメンタリーの誕生 『現代の映像』第1回~還らぬ海~撮影記 上
岸本勝
佐吉丸遭難
私が撮影した『現代の映像』第1回〔還らぬ海]~第6佐吉丸遭難の記録~は、昭和39年4月12日に放送されました。番組は北洋漁業の現状をテーマとし、タラ・ハエナワ木造漁船第6佐吉丸(36トン)が3月4日朝、シコタン島沖合の北洋で流氷にぶつかり浸水、僚船と巡視船に助けられて母港へ帰る途中の5日朝沈没しました。番組はこの2日間を中心に北洋の社会的影響を描いたものです。
昭和37年の統計によると、根室・釧路管区だけで発生する海難事故は年間300件、そのうち海難で船が沈んだのは50隻です。平均すると週1回の割合で沈むことになるが、海難は気象・海象条件の厳しい厳冬期に集中します。この統計を参考にして2月末根室を訪れました。ところが意外にも漁民たちは、海難よりソビエトによる拿捕を恐れていました。戦後18年間に根室だけで、延べ800隻6000人以上が拿捕されていました。数の上でも拿捕の方が圧倒的に多かった。
根室花崎港から2日間の哨戒行動に当たる巡視船『ゆうばり』350トンに便乗したあと、釧路港から交代して出動する『とかち』350トンに尾西清重PDと二人で乗り込みました。便乗して2日目の午前3時、北千島オンネコタン島の沖合ソ連領海13カイリ付近で『豊漁丸』78トンが座礁し救助を求めているとの連絡が入った。当然、哨戒行動に出動している『とかち』が救助に当たると思っていたが、海上保安部から“釧路から『つがる』450トンが救助にむかう”との連絡してきた。350トン型巡視船の航海限度は中部千島までと決められている為との事でした。しからば『つがる』に移乗させて取材させてほしいと無線を打ってもらうと、釧路海上保安部からは“NO”の返事だった。『ゆうばり』の乗組員は“巡視船の無線もすべてソ連側に傍受されている。従って移乗の連絡をすれば相手側に分ってしまう。巡視船内での取材活動だと言っても望遠レンズを持っている民間人は逮捕され石切り場で強制労働をさせられる”と脅かす。更に“ソ連国境警備隊にはレポ船が日本の新聞や雑誌を毎日のように運び、贈られた日本製のテレビで何時もNHKニュースを見ている。その上、日本の情報はすべて筒抜けだ”と話す。
巡視船の航海を2度経験し3度目の航海に出ようと根室に待機していた3月4日朝7時ごろ、私たちは海上保安部からの電話でたたき起こされました。“シコタン島の沖合で『第6佐吉丸』36トンが流氷にぶつかり浸水したとの電信があり『ゆうばり』が直ちに花崎港から出港する”と連絡を受け花崎へ車を飛ばす。
二人が東京から持ってきた機材は、バッテリー駆動でズーム・望遠レンズをつけてもパララックスのない当時最新鋭のアリーフレックスと、ゼンマイ駆動ですべて手動のフィルモの16ミリ映画カメラ2台と、昼間用と夜間用の2種類の白黒フィルム・デンスケと呼ばれているPT5型録音機と録音テープ、バッテリーライト2台と充電器、500ワット交流用ライト3台、それに三脚など10個ほどの機材を出港準備している『ゆうばり』に撮影しながら積み込んだ。
心配で駆け付けた『第6佐吉丸』の船主の芦崎盛久さんも『ゆうばり』に乗り込み、午前8時半出港した。遭難現場まで凡そ130キロメートル、流氷帯を突っ切っても現場到着は午後4時半頃だろう。流氷・着氷・うねりと戦いながら『ゆうばり』は進む。マストに上っていた乗組員が流氷帯の真っ只中にいる漁船を発見する。ズームアップして撮影すると2隻の漁船だとわかる。やはり1隻は『佐吉丸』だった。予定より1時間早く午後3時25分に遭遇した。近づいて聞いてみると、『佐吉丸』の9人の漁船員は、午前7時ごろ、通りかかった『第51やまさん丸』に潜水具を借りて応急修理をほどこし、急を聞いて駆け付けた僚船の『第16つね丸』に曳航されここまで来たという。『ゆうばり』の先導で、2隻の漁船は一路花崎に向かう。流氷帯を抜け出すと『佐吉丸』は『つね丸』の曳航索を切って自力で走り出した。うねりに翻弄されながらも望遠レンズで撮影すると『佐吉丸』のブリッジの表情は明るい。このまま何事もなくすめば、明朝6時頃には花崎港に着くはずだった。
(元NHKカメラマン 岸本勝)