▶ 2013年6月号 目次
NHK報道カメラマンの追憶――動乱・戦争取材の記憶をたどって
岡田 多生
何でまた。どうしてそんな危ない所に。
両親はそのつど故郷(大阪)の氏神様のお守りを送ってきた。
家族、親兄弟には心配をかけた。
地球上ではこんなことが起こっている。それを映像で知らせたい、知ってもらいたい、という気持ちを駆り立てるカメラマン根性である。
インドネシア(1967年)
ベトナム戦争取材(1968年)インドシナ3国(1969~71年)バングラデシュ(1971年)などの動乱を経験した。その中の最も心に残る一つがベトナムのケサン基地取材45年前の昔話である。
1968年5月海外取材番組「ベトナム戦争」取材班として初めてベトナムのサイゴンの土を踏んだ。NHKサイゴン支局に着くと最初に先輩から
・安全の第一歩は双方の銃声を聞き分けが出来ること。
米国軍やベトナム軍のM16の自動小銃はバァーンバァーン、解放戦線側の中国製Ak47はキィーンキィーン の音を聞き分け、耳元でシューッとかすめる音、ビシャーッという音がしたら至近距離から撃ったもの。その時はもう頭を上げてはならない。
・朝一番車で郊外を走るな。地雷が仕掛けられていることが多い。
・水筒は補給できるところまで空にするな。非常食も全部食べきるな。
・フイルムは結構重い。取材対象を計算し出来るだけ少なく。何が起こっても撮れるように全部使い切るな、30ft(約1分)は残しておく。何が起こっても撮れるように。
戦場での教訓を噛みしめた。
ベトナム取材では北ベトナムと接する最前線ケサン基地まで行った。基地は米軍と解放戦線の激烈な戦闘が昼、夜と繰り広げられ、圧倒的火力を持つ米軍も北ベトナム軍に包囲され一時塹壕から一歩も出られない日も続いた。取材もなかなか許可が得られず、何日も待たされてやっと日本のTVチームとして初めて基地の取材ができた。
基地に向かうダナン空港では「今日は北ベトナム軍の攻撃は少ないだろう」という時を見計らってケサンに補給便が飛ぶ、これに便乗するのだが、いつ飛ぶのか炎天下で3日間も待ち続けた。
ヘリはエンジンを一杯にらせん状に急上昇する。空港から外れると攻撃される。
ヘリの両側に機関銃を構えた兵士が引き金に指を掛けて見張っている。下を見ると月のクレーターのようなB52の爆撃の無数の穴、広島、長崎の原爆5個分13,500トンの爆弾を投下したといわれる。美しい緑がえぐれて茶色の山になっている。ケサン基地は高地を切り開きそこに一本の滑走路がある。エアーショットは禁止であったが爆音でカメラ音は聞こえない、隠し撮りした。へリは急降下し着地すれすれのところを飛び降り近くの窪地に転がり込んだ。離発着の時が攻撃されやすく一番危険で素早く行動する。滑走路の脇に目を向けると北ベトナム軍の砲撃で撃ち落とされ、まだ燻っている輸送機の残骸があった。
基地は滑走路以外は全て地下で、100万個あるという土嚢が幾重にも積まれている。中は人がすれ違うのもやっとの狭い陣地、汗が噴き出てフアインダーがよく見えない。壁にはフィアンセの写真、その横に手書きのカレンダー、過ぎ去った日はバツ印で消され今日まで無事だった、あと何日で交代できるのかと、祈りを込めた兵士の心情が胸に突き刺さった。
土嚢の先から曲がりくねった塹壕が見え撮影しようとすると、これは駄目と手で覆いかぶされた。放映されると地形が敵側に知られてしまうと、撮影には異常なほど神経質であった。米軍は比較的自由に撮影できると思っていたがケサン基地は違っていた。
長居は無用と急き立てて撮影したが、今日のヘリはもう飛ばない、山を下るコンボイ(トラックの車列)がすぐ出発すると聞き慌てて荷台に乗った。トラックは猛烈なスピードで凸凹の山道を飛び跳ねながら走り、ケサンより少しは安全という基地にたどり着いた。荷台で振り落とされないか懸命に身体と機材を支えたので腕と足ががくがくになった。無事にケサン取材が終わった、と呟き張り詰めていた気が一気に抜けた。
米国はベトナム戦争の8年間、1日300億円の戦費を費やし4万5千人の戦死者をだした、が結局負けた。
ベトナム戦争のテレビ報道は戦争の悲惨さを茶の間に持ち込こみ、人間社会の最も異常な場面を見せつけた。世論はテレビによって大きく動かされ、それが反戦、戦争抑止となり和平をもたらした背景がある。
悲惨、憎悪、対立、不信が渦巻く歪な社会を映像で表現しどこまで伝えることが出来たかと自分に問いかけ、また反省もしたベトナム戦争を取材したカメラマン一人であった。
岡田 多生(元NHKカメラマン)
=写真は、ベトナム・ケサン基地の取材する岡田カメラマン