▶ 2013年6月号 目次
慶応義塾における「ジャーナリズムへの関心」事はじめ
鶴木真
ジャーナリズム活動は、福沢諭吉の手がけた主要な事業の一つであった。
明治6年(1873年)森有礼によって提唱された「明六社」は、福澤諭吉のほか西村茂樹、津田真道、西周、中村正直、加藤弘之、箕作秋坪、箕作麟祥らが加わって活動をはじめ、明治7年3月に機関誌「明六雑誌」を創刊し、翌年11月の停刊までに43号を刊行した。明治8年6月に讒謗律、新聞史条例が発令され言論統制の主体が文部省から内務省にうつされた。この状況を福沢は「明六雑誌ノ出版ヲヤメルノ試案」において明らかなように、「学者ノ自由発論ト両立スベカラザルモノ」と受け取ったからである。権力に対抗して明六雑誌の出版を続けるには、「社員ノ所見真ニ一ニシテ社恰モ一身ノ如クナルニ非ザレバ」現実化しない、しかし社員の思想・信条は「一身の如く」ではない。したがって停刊すべきであると主張した。事実は福沢の主張どおりとなった。
後に「明六社」の学術活動は、明治12年に創立された「東京学士会院(現在の学士院)」に継承された(福澤諭吉が初代会長)。
明治13年(1880年)冬、福沢が大隈邸で伊藤博文、井上馨、大隈重信の三参議から官報(政府機関新聞)発刊の依頼を受け、国会開設との絡みで承諾した(『福翁自伝』や福沢諭吉の書簡にその経緯が明らかにされている)。この官報発刊計画は明治14年の政変によって頓挫した。
しかし福澤諭吉は明治15年(1882年)、官報発行準備をまず『時事小言』発刊に切り替え、次に『時事新報』を創刊するに至った。福澤がこの時期に新聞創刊にこだわった背景は、明治12年(1879)8月に刊行した『民情一新』という小冊子にヒントを見いだすことができる。
福澤と交詢社の人々は、憲法制定と国会開設を見据えて、ドイツ型でなくイギリス型の成文憲法論をかかげた動きを示していた(『私擬憲法案』)。坂野潤治の近著『日本憲政史』(東京大学出版会 2008年5月)に以下の記述がある。
「・・・その主張は大きく分ければ二点に集約できる。その第一は、政権交代を伴った議院内閣制の主張であり、第二は、それを上からの憲法制定によって実現しようとしたのである。・・・近代日本の議院内閣制論は、その初めから「政権交代」を正面に掲げて登場してきた。まだ国会期成同盟もできていなかった明治12年(1879)8月に、福澤諭吉が『民情一新』という小冊子を刊行して、「政権交代」の重要性を特筆大書したのである。・・・」(同書 pp.47-49)。 この主張の前提となっているのは、ヨーロッパにおけるコミュニケーション(情報)革命により人民は新思想にふれられるようになり、かつての芋虫の状態から蝶の状態に進化し、これを御することが難しくなった(人民が要求を増大させた)という福澤の認識であった(慶応義塾編 『福澤諭吉全集』 第5巻 pp.32-33 1970年 岩波書店)。
「全世界で日々起こっている事件や新しい思想についての「インフォルメーション」が新聞に印刷され、郵便ポストに投じられ、蒸気車で国内全域に、蒸気船で世界各国に送られるようになったのである。彼はそれを要約して、『印刷郵便の新工夫』が主で、『蒸気電信これを助る』と表現している」(坂野潤治 前掲所p.49)。
時事新報は、慶應義塾出身者により運営され、石河幹明、堀江帰一、板倉卓三、伊藤正徳らを擁し、明治中期から大正末期にかけて最盛期をむかえ、日本を代表する新聞となった。しかし大阪への進出が経営的に裏目に出たことと、関東大震災により打撃をうけたことで昭和16年12月に東京日々新聞に吸収された。戦後昭和26年に一時復刊されたが昭和30年産業経済新聞に吸収された。
鶴木真 (綱町三田会会員 東大名誉教授 )