▶ 2013年7月号 目次
医療事故調は患者中心でありたい
木村良一
今回は10年前に都内の大学病院で行われた医療事故の記者会見の模様から話を始めよう。
2003年(平成15)年11月11日の午後3時過ぎ。講堂の壇上に白衣姿の院長と2人の副院長が現れ、最初に院長が「ご迷惑をおかけしたことをおわびします」と頭を下げた。その後、副院長が医療事故の経緯をごく簡単に説明し、もうひとりの副院長が「司直の手に委ねられているので質問には一切、お答えできない」と話したと思ったら、3人が同時に立ち上がり、そろって回れ右をして縦一列に並んでそのまま歩いて講堂の外に出て一方的に記者会見を終わらせてしまった。
この間、わずかに5分。私も含めてその場に集まっていた数十人の記者やカメラマンは唖然とさせられた。
病院名はあえて出さないが、問題の医療事故は50歳代の女性患者に対し、中心静脈カテーテルと呼ばれる点滴用の細管を静脈の心臓に近いところまで入れる途中で静脈を破って胸腔内に誤挿入したことに気付かず点滴を続け、患者を死亡させたものだった。この医療事故を産経新聞が朝刊1面と社会面で報じたのを受け、大学病院が急遽、前述の記者会見を開いたわけだ。
大学病院は昭和の初めに開設され、その古い歴史の中で一度も医療事故が公になったことがなく、マスコミ対応もよく分からなかったらしい。
それにしても、なぜあんな非常識な記者会見を行ったのか。医療事故の原因を突き止め、再発防止に努めようとする真摯な態度に欠けていたとしか思えない。事故を公にすることで他の病院にも知らせ、同様の事故が起こるのを防ごうとする考えもなかったのだろう。とくに白い巨塔といわれてきた大病院は、どうしても不祥事を隠そうとする隠蔽体質が抜けない。いまでこそ病院が医療事故を公表するようになってきたものの、以前は病院が自ら進んで事故を発表するようなことはなかった。
だからといって治療にきた患者が死ぬような医療事故を放っておくわけにはいかない。どうしたら患者にとって理不尽な医療事故を防げるのか。その答えは医療事故を第三者の目で客観的に分析できる調査機関制度にある。航空事故や鉄道事故に対し、事故原因を究明する国土交通省運輸安全委員会の医療版と考えたらいいだろう。
その「医療事故調査制度」の概要が5月下旬、医師や患者の遺族、弁護士らでつくる厚生労働省の検討部会でやっとまとまった。これまで医療界の反発や政権交代でなかなか議論がまとまらず、ここまでくるのに10年以上の歳月を費やした。
厚労省によると、制度の対象となる予期せぬ死亡事故は、年間1300~2000件起きている。過去には死亡には至らなかったものの、手術する患者を取り違えたり、手術器具を患者の体内に置き忘れたりと信じられない事故もあった。起きた事故のカルテを改竄するような悪質な病院もあった。民事訴訟が増え、医師個人の刑事責任も問われてきた。医師はリスクの高い手術をしなくなり、訴訟の多い産科や外科などの診療科を担当するのを避けるようになった。その結果、医師不足を招き、医療崩壊が社会問題になった。
今回まとまった医療事故調査制度の大きな特徴は、まず最初に医療機関が自らの手で自分の病院で起きた医療事故の原因を調べ上げ、その院内調査の結果を民間の第三者機関に報告するところにある。
しかし、一般社会と大きくかけ離れ、「医師の常識は社会の非常識」とまで皮肉られ、隠蔽体質から抜け出せない医療機関に客観的調査はできないと思う。身内が身内を調べること自体に無理があるし、冒頭で書いた大学病院の記者会見の問題を考えてもよく分かるだろう。
2008(平成20)年6月に厚労省がまとめた大綱案では、事故原因の調査は病院とは無関係の第三者機関で行われることになっていた。しかし、第三者機関に調べられることに対し、病院や医師ら医療関係者が猛反発し、厚労省も大綱案を引っ込めざるを得なくなった。その結果、病院の院内調査が優先されるようになった。医療関係者の声は強く、医療事故にともなう刑事訴追や民事訴訟などから医師を解放すべきだとの意見まで出てきた。そして医療事故調は医師や病院のための組織に変わってきた。
ここで振り返える必要がある。もともと医療事故調は「真実を知りたい」という医療事故で最愛の人を失った遺族の願いから始まったはずだ。患者中心の構想だった。
それが医師中心のものになってしまった。医療事故調査制度の在り方をもう一度考え直す必要がある。
木村 良一(産経新聞論説委員)