▶ 2013年7月号 目次
NHK報道カメラマンの追憶――南極観測船「ふじ」に同行取材して(上)
岡田 多生
日本南極観測の昭和基地が再開されたのは、半世紀前の昔話である。
日本の南極観測は昭和31年南極オングル島に昭和基地が建設されて観測が始まった。しかし日本と南極を航海した海上保安庁の観測船「宗谷」は老朽化し2度も氷の海に閉じこめられたため昭和37年昭和基地は閉鎖を余儀なくされた。
昭和39年は東京オリンピックが大成功し、日本も先進国の仲間入りしたと世の中は高揚した気分が広がっていた。
そのなかで、翌年の40年、南極観測船「ふじ」が日本の造船技術の粋を集めて新造され、国を挙げて南極観測が3年ぶりに再開された。
南極観測船であるが、海上自衛隊所属の砕氷艦であり艦長以下乗組員は自衛隊員である。
それまで南極のマスコミ同行取材は、朝日新聞社と共同通信社の記者2名のみであった。そこに視聴者1,800万人を超えるメディアに成長したテレビ、その代表としてNHKが加わることになり、トップバッターとして同行することになった。
取材にあたっては撮影、録音、原稿もすべて1人で30分番組を2本、ニュース用も撮って各TV局分配すると大雑把な命を受けた。
私はそれまで海外取材番組「先進国家の像」やドキュメンタリー番組など数多く経験していたが、これらの番組は記者、プロデユサーがチームになって制作したので、何もかも1人の仕事はずっしりと重い。また南極の知識は遠い地球の底の話程度で、無いに等しかった。だが放送人として一生に一度のチャンスと言い聞かせ振るい立たせた。
それから南極を経験した観測隊の方々をはじめ多くの方に、いろはのいの字から教えてもらい学んだ。
NHKのカラー放送は昭和35年9月からだが放送時間はわずかで、東京オリンピックも開会式や屋外競技の一部の放送であった。その頃カラー受像機は1台数十万円もして一般家庭への普及はまだ及んでいなかったが、TVのカラー化は近いと誰しも思っていた。
よし一歩前へ先駆けしてカラーで南極を紹介してやろう。だが、カラーフイルム、現像、ラッシュプリント、ネガ合わせ、放送プリントの工程を経て番組が仕上がるが、白黒の番組より数倍の経費がかかる。果たして許可されるだろうか不安であった。
南極は氷山の白、青い空と海とモノトーンのような世界を思い浮かべるが、氷山に海の青が反射して微妙なグラデーション作り、赤味を帯びた夕日が氷海を黄金色に映えさせる、この色合いの変化、これこそが南極の醍醐味だと観てきたような受け売りをし承諾を得た。
番組の構成は、南極観測がTV初紹介とあって「ふじ」の処女航海、4年ぶりの昭和基地再開、南極の自然、それに村山観測隊長、本多艦長の姿を追うものであった。
持参した機材はアリフレック1台、フィルモ2台、録音機、照明器具、三脚、それに氷を割って進むところを「ふじ」舳先近くにカメラを吊り下げて撮る仕掛けなどで、機械が寒さで凍らないよう耐寒処理も怠らなかった。
同行取材の原稿、写真は船から無線で東京に送られた。写真は船の暗室で現像、プリントして電送した。いまは衛星電話で不自由なく送れるが、当時は“トン・ツー”のモールス信号が唯一の通信手段であった。
マスコミ3人は一つの部屋に3段ベットとそれぞれの机と機材で狭い部屋であった。
南極に行くには荒れ狂う暴風圏を通過せねばならない。
船は大波を切って進むが30度近くも揺れる。船室の荷物は引っ繰り返らないよう紐で括る。船酔いする観測隊員もいる。
船にはマストの上に遠くを見渡す観測小屋、通称「はと小屋」がある。そこから荒れ狂う波をかぶり突き進む船の雄姿を撮ろうと目論んだ。マストは10米ほどの高さ、命綱をつけ振り落とされそうになりながら登った。波しぶきが小屋まで飛んできた。壁に身体を預け足は力一杯踏ん張って撮った。船室に戻ったとき足がガタガタ震えてへたり込んだ記憶がある。
岡田 多生(元NHKカメラマン)
=暴風圏を行く南極観測船「ふじ」