▶ 2013年7月号 目次
NHK報道カメラマンの追憶(下)――氷を割って昭和基地へ
岡田 多生
「ふじ」は3年ぶりの昭和基地再開に向けて暴風圏を乗り越えて進んだ。観測隊員、艦の乗組員に緊張と期待が走った。
南極観測船は砕氷艦である。どれくらいの氷の厚さを砕いて進めるかが、船の能力、性能である。これをどう映像で表現するか、ただ氷の海を進んでいくだけでは平凡だ。
昭和基地が近くになると氷が2mにも厚くなる。船は進むことが難しくなるので、ヘリコプターで資材を運ぶ運搬基地を厚い氷の上に作る。この時チャージングという船を全速力で氷にドーンとぶつけ、また後退して氷の上に乗り割る。このシーンをこそ「ふじ」の真骨頂だと考えていた。真正面から撮りたいと本多艦長、村山隊長に申し出た。
何しろ危険。氷がどんな割れ方をするのか分からない、もし海に落ちたら──と、なかなか許可が下りなかった。ここは職業柄のねばりで何度もお願いした。
一人ではあまりにも危険と自衛隊の乗組員一人を助手につけてくれた。物干し竿より長い棒を持っている。もし氷の割れ目に落ちた時に氷で支えるためである。
氷の真白な大平原は、シーンと静まり返った不思議な世界である。カメラと三脚を持って5~60mも歩いたでしょうか。後ろを振り向くと7千トンのオレンジイエローの「ふじ」の巨体、船からスピカーで、もっと後ろへの命令、200mも離れたでしょうか、やっとOKがでる。船はエンジン一杯の音と共にグア~ンと氷にぶつかり、乗り上げて氷を割る、その音が氷原に響き渡った。
ついに念願のシーン撮れたと辺りを見渡すと、氷の割れ目が撮影した場所近くまで来ていたのを見た。冷や汗が出てやっと吾に返った。
このシーンは番組のタイトルシーンとなり、50年経た今でも残像として焼き付いている。
いよいよ昭和基地に一番機が飛ぶことになった。昭和基地再開である。
ヘリコプターの重量、飛行距離から、観測隊は村山隊長以下4名、報道は1人と決まり、機材も含めて1人80kgまでと制限された。
昭和基地まで70キロほど、一番機は飛行甲板を離陸し一路昭和基地へ。ヘリコプターは基地近くの平らな氷原を見つけて1mほどの高さにホバリングした。皆より真先に降りて待ち受けて撮らねばならない。パイロットのOK合図も聞かないうちにヘリから飛び降りカメラを回した。
搭乗してきた村山隊長と観測隊員は、4年前に基地を閉鎖した人である。
「よく頑張ってくれた」と叫びながら小屋の屋根の扉を、かん、かんと金槌で叩き、その音が歓びの響きになって扉が開かれた。
食堂は閉鎖した時そのまま、薄らとしたカビは生えていたが、炊飯器を開けると4年前に食べ残したご飯があった。隊員たちは「戻ってきた!」と歓びの声をあげた。
それから1か月、基地は資材を運ぶヘリの爆音、かけ声が白夜の夜まで続き、その中を撮影しながら基地建設工事にも携わった。
基地から引き上げるまでの1か月余。心身ともに疲れたが、隊員たちとすっかり打ち解けて、自然のままの生き生きとした表情も捉えて達成感のある取材ができた。
帰路、基地再開を一日も早く放送し、再開の歓びを見てもらうため、船が最初に立ち寄った南ア・ケープタウンで下船し、フイルム150本を抱えて飛行機を乗り継ぎ2日間かかって東京に持ち帰った。乗り継ぎの空港では、フイルムが搭乗の便に乗せられているか確認し、また税関に大量の撮影済み未現像のフイルムが封を開けられ感光されないかチェックして最後まで気が張った。まだTV取材が空港や税関関係者などにあまり理解されていない時代でもあった。
番組はベテランの編集、制作者によって仕上げられ、帰国後の3月の放送記念日に「南極再開の記録」、第1集「氷海を超えて」第2集「よみがえる昭和基地」と、2夜に渡ってカラー30分番組で放送された。
平成15年、NHKは昭和基地にハイビジョン衛星中継センターを開局し、生放送で南極を紹介した。それを見て当時の取材の試行錯誤を思い出し、地球の底の南極からでも中継できる時代になったと感無量であった。
岡田 多生(元NHKカメラマン)
=写真は 空から見た南極観測基地