▶ 2013年7月号 目次
慶応義塾大学新聞研究室の創設と板倉卓三、米山桂三
鶴木 眞
慶応義塾大学における第一世代のマスコミュニケーション研究と教育は、専ら、福沢のジャーナリズム活動、なかんずく時事新報の隆盛を背景としたジャーナリズム倫理、ジャーナリスト育成にあった。
明治31年5月、法科・文科・理財科のほかに新たに政治科を設けることを報じた『塾報』は以下の記述がある。
政治科を置いて有為の政治家を養成する筈なり…本大学は左の希望を有する者に 必要なる学問を為さしむるを以て目的とする。経済学を専攻せんとする者、高等実業に従事せんとする者、高等官吏たらんとする者、政事に従事せんとする者、新聞記者たらんとする者」(「慶応義塾学報」第一号・明治31年3月)。
この新設学科教授陣の中に板倉卓三がいた。『法学研究・政治学科70周年記念号』(1968年5月)には以下の記述がある。
「板倉卓造博士は、明治43年大学政治科教員となって以来、政治科の育ての親であり、 大黒柱であった。…戦後教壇を去って、時事新報社長に就任後も、その隠然たる存在は政治科の誇りであり、大きな支えであった。昭和26年第一回新聞文化賞を受け、我が国学界、言論界の重鎮であった。…政治学・政治哲学の潮田江次、国際法の前原光男、社会学の米山桂三、政治学・日本政治史の中村菊男はその後継者であって、博士の影響は広く深く未だに政治学科に浸透している」。
明治43年に留学から帰朝した板倉卓造は「国際公法」と「政治学」を担当したが、著書『国民政治時代』(昭和元年12月 大岡山書店)には「輿論を正直に導くたが為には、人の意見の発表宣傳を自由にして、自ら其の間に自然の帰結を得しめることが政道の妙を得たものである」などの、大正デモクラシーを体現したリベラリストの言辞が溢れている。
政治学科に、はやい時期から社会学の講座を開設したことは、板倉卓三の慧眼であった。弟子である米山桂三が、英国のロンドン大学留学から帰国すると(昭和11年)年法学部講師に採用し「政治心理学」と「社会学」の講義の担当を命じた。米山は日本における「輿論」研究の創立者となった。
「本来輿論を中心にして現実に生起する輿論現象なるものは、それが多数者の行為を現実に統一せしめるところにある。しかるに社会の多数者が、その個人的意見からにせよ、或いはまた民論に於いてにせよ、一定の状況において単に肯定的にか否定的にか反応しているとか、或いはまた何等かの意見を抱いているというだけでは、現実に多数者をして統一的な行為にまで導くことはなく、従って現実に輿論現象なるものも生起しないのである。」(米山桂三『輿論』、「社会学大系 第12巻 田辺寿利 責任編集「輿論と政治」昭和23年11月 国立書院)。
太平洋戦争を経て、1973年に米山は、自らの輿論研究を次のように総括している。
「今日まで私は、断続的にではあるが輿論の研究を続けてきたのであって、戦争中には『戦争と輿論』という論文(昭和17年)や『思想闘争と宣伝』という著書(昭和18年)などを書いた…私は宣伝ばかりに頼って国民を引っ張ってゆこうとしているヒトラーはいつかは息切れがしてしまって、忍耐強く国民の『輿論』的支持のある態勢を整えようとしているイギリスに勝つことは不可能であろうという点を指摘しておいたのであった。
そのために昭和18年の暮には憲兵隊に引張られて取り調べを受け、今後一切そのような『輿論』論議をしないという誓約書を書かされて一応放免になった。」
米山にとって戦中に憲兵から要注意人物とされた経歴は、皮肉にも敗戦後の幸運となった。昭和21年の夏、占領軍総司令部民間情報教育局の勧告に基づいて慶応義塾でも大学ジャーナリズム教育機関が設置されることになり、米山がその任にあたることになった。米山はこの間の事情を以下のように記述している。
「ところで総司令部の期待は、日本にもアメリカ流の新聞学部乃至は新聞学科を設置することであったらしく、特にミズリー大学の新聞学部長モット博士を招いて総司令部はその方針を貫くはずであった。しかしわたくしは、わたくしの年来の考え方の外に、日本新聞界の伝統もあわせ考慮して、総司令部案を鵜呑みにすることを拒否する決心を固めたのであった。こうして昭和21年9月に誕生したものが『慶応義塾大学新聞研究室』である。」(「塾」 慶応義塾、1971年 No.5)。
政治学科のみならず慶應義塾のマスコミュニケーション研究、ジャーナリズム研究は、米山桂三によって敗戦後に新たな研究領域として、また独立した講座として確立された。米山は戦前の「宣伝研究」から戦後の「マスコミュニケーション研究」への時代的潮流変化を、直感的に認識する事が出来る「閃き」を備えていた学者であった。
鶴木 眞 綱町三田会会員(東大名誉教授)