▶ 2013年7月号 目次
旅と人間──トポスとホドス──西田幾多郎と和辻哲郎
山岸 健
哲学者、西田幾多郎は、人間にとって真の環境は世界だという。時間的空間的世界、歴史的社会的世界、人格的世界、日常的世界が姿を現す。
倫理学者、和辻哲郎は、人間を間柄存在として理解したが、根本的空間、定位された空間、環境的空間、等質的空間という視点から空間へのアプローチを試みている。人と人との触れ合いや交わりが体験される根本的空間をふまえて、家、家屋、屋敷などが定位された空間である。風土が環境的空間であり、水田、稲田、麦畑、市街地、住宅街などが等質的空間だ。
こうした世界や空間などを体験したり理解したりすることができる有力な方法、人びとに生きる喜びと楽しみをもたらしてくれる方法、それが旅であり、旅の力と効果は、はかりしれないほど大きい。
石川県に生まれ育った西田幾多郎の生活史には生まれ故郷や金沢、東京、京都、鎌倉が姿を見せている。日本海と相模湾の鎌倉の海は、西田にとって大切な風景だった。稲村ガ崎の海辺から谷戸の道をたどっていくと小高いところに鎌倉の西田邸がある。七里ガ浜の散歩は、西田にとって楽しみなことだった。
いま鎌倉の鶴岡八幡宮からそれほど離れていないところだが、谷戸がイメージされるところに和辻哲郎の東京の旧居が移築されて鎌倉の重要な場所(トポス)となっている。川喜多夫妻の所有物となっていた古民家だ。
一般公開の日にこの川喜多邸、和辻哲郎の旧居を訪れる。家屋、定位された空間の入ったところが土間であり、そこに囲炉裏があった。この土間から部屋へ、という場所に立派な大黒柱が姿を見せていたが、大黒柱の近くに部屋の(居間だろう)囲炉裏があり、この部屋には洋風の大きなテーブルと椅子が置かれていた。大黒柱と囲炉裏などをスケッチする。
囲炉裏端は秩序づけられた、約束ごとのトポス、場所、席であり、誰がどこに、ということについて定められた規範があった。
『風土』や『倫理学』の著者、和辻は、東京の郊外で和洋折衷の暮らしを営んでいたのである。
ヨーロッパ滞在時、和辻は、パリから列車で南フランスを経由して、イタリアに向かう。この旅において和辻は、気候や風土について理解を深めたのである。風土へのまなざしの開花である。植物の姿や状態、風景と大地の様相の変化と特徴によって和辻は風土に注目したのである。
旅体験は、風土や風景、風俗、地方色、人びとの日常生活などを広く深く体験する方法である。ギリシア語、ホドスὁδóςには道、道程、旅、旅程、方法、生き方、行為などという意味がある。トポスτóπo ς というギリシア語には場所、位置、ところ、家、部屋、坐席などという意味があるが、トポスとホドスにおいて旅の姿と意義が明瞭に理解される。トポスには集落や墓、墓地という意味がある。集落と墓地は一体的だ。ヴェネツィアには墓地となっている島がある。
その人物の旅をたどることによって人物の姿や人間像、その人の関心の領域、生き方が浮かび上がってくる。和辻哲郎は姫路市の郊外に生まれ育っている。
西田幾多郎は京都に注目しながらも鎌倉の古淡の風情や独特の風景に心を傾けている。海の西田は、私はミレーと同じように自然が好きだという。西田──働く人は大地の一角から世界を見る。
北鎌倉の東慶寺の墓地には西田幾多郎の墓所や和辻哲郎などの墓所がある。谷戸の地形と風景と一体となったトポスである。
現代を生きる人びとは、生まれ故郷や自分の生活史、さまざまな旅についてどのような思いを抱いているのだろうか。
旅とはゆとりである。旅とは希望への道である。旅とは人生を広く深く生きることだ。
山岸 健(慶應大学名誉教授)
=鎌倉:和辻哲郎、旧邸 スケッチ・山岸 健