▶ 2013年8月号 目次
旅と人間(最終回)━ 希望の光のなかで━
山岸 健
大きな宇宙にたいして人間を〈小宇宙〉と呼ぶこともできるが、人間は、人びとのなかで、自然のまっただなかで、大地や環境、さまざまな対象や事象と結ばれた状態で、身心を委ねることができる人間的世界やトポス、場所やホドス、道をかたちづくることに専念してきたのである。
人生と呼ばれる旅において、さまざまな旅を体験することは、人間の生活と生存においてきわめて大切な人間の営みであり、試みなのである。心ゆたかに、生き生きと生きること、希望の光のなかで意欲的に情熱的に生きることが、人生の旅びとには必要とされてきたのである。旅とは、〈希望の光〉なのだ。
ボックス・アートで知られるジョゼフ・コーネル Joseph Cornell, 1903-1972には「旅人ホテル:アポリナリス」Hotel des voyageurs :Apollinaris,1951と題された作品がある。箱そのものが作品の支え・台、大地となっており、箱の底部に Apollinarisという文字や小さな図像を見ることができるボックス・コンストラクションだ(49×32奥行き:10.5)。コーネルには終わりなき旅のすばらしさと夢のような旅をたたえた言葉がある。
ホテルは特別なところだ。かつて東京の隅田川の河畔にはメトロポールと名づけられたホテルがあった。永井荷風はこのホテルでキアンチ(荷風の表現だ)を口にしながらパリやヨーロッパに思いを傾けていたのである。
旅には夢や希望、思いや思い出が満ちあふれている。旅とはまさに自覚であり、人間の目覚めなのだ。人生を広く深く、生き生きと生きること、それが旅である。
東京、上野で〈エル・グレコ展〉へ。ギリシアのクレタ島で生まれたエル・グレコの画業は、スペインで大きく花開く。彼の名前にはギリシアがそのまま姿を現している。名高い絵画作品には楽器も描かれている。音楽と音風景=サウンドスケープ(音の環境)の画面に聖母マリアが天使とともに描かれている(「受胎告知」1600年頃/「無原罪のお宿り」1607年-13年)。
私たちは、家族でバルセロナ、マドリード、トレド、グラナダなどを旅しているが、トレドではエル・グレコの絵画や大聖堂、教会、独特の地形、大地と市街地、タホ川などが体験されたのである。グレコが描いたトレド風景の作品があった。聖像の画家、グレコの風景眼や大地に注がれた〈まなざし〉にも注目したい。
エル=エスコリアルへの旅、マドリードからの日帰りの列車での旅を思い出す。スペインを代表する歴史的建造物、エル=エスコリアルの修道院は、スペインの歴史そのものだった。スペインの思想家、哲学者、社会学者、オルテガ・イ・ガセーには「私は私と私の環境である」という注目に値する言葉がある。彼は森を目に見えない自然、可能な行為の総和として理解しているが、エル=エスコリアルの森がオルテガの大切なよりどころとなっていたのである。
マドリードから列車でグラナダへ向かう時、丘の上の風車がつぎつぎに姿を見せた区間があった。セルバンテスの車窓がイメージされたのだった。
アルハンブラ宮殿の風景とそのたたずまい、さまざま造形、中庭などを思い出す。ライオンの水景の中庭があった。
旅には終わりがないように思われる。人生には終わりがある。限界がある人生において旅のさまざまな記録を残していくことは、人間の使命ではないかと思う。
旅において生まれる力や勇気、希望がある。人びとは、希望の光のなかで大切な大切な人生の日々を旅するのである。
山岸 健(慶應大学名誉教授)
=写真は、エル エスコリアル宮殿