▶ 2013年11月号 目次

1973年・第四次中東戦争体験記②-消防出初め式でもあるのかと思った空襲警報-

鶴木 眞


 1973年10月6日、私はイスラエル・エルサレムの賃貸マンションのベランダから、バス通りの様子を眺めていた。それは、ユダヤ教で最も神聖な祭日である「贖罪日(ヨム・キプール)」で(グレゴリオ暦では9月末から10月半ばの1日)、ユダヤ暦新年の連休で行楽地に行っていた人々が帰って来て、ユダヤ教会に祈りをささげに行く光景であった。イスラエルのユダヤ教徒にも、世俗化した人々は多い。宗教上、食べることが禁止されている豚肉も、肉屋で表通りからは見えないしつらえになっているショー・ウィンドウに、「豚肉」としてではなく「白い肉(バッサール・ラバン)」として売られている。高野山の宿坊で、酒の持ち込みは禁止されていても「般若湯」の持ち込みは許されているのに似ている。
 ユダヤ教徒でない私は大学も休みだし、商店のほとんどは閉店しており、公共交通機関(バスが主体)も動かないので、昼間から「コーシェル・ワイン(宗教的に清いワイン)」を飲んで祭日を過ごしていた。ほろ酔い気分になったころ、街中にサイレンが鳴り渡った。私は「イスラエルにも新年に消防の出初め式」でもあるのかと思ったが、街の様子が一変したことには気がついた。人々が挨拶を交わしながら行き来していた街路は、人っ子一人いなくなった。それが空襲警報であることは、住民が指定された防空壕に飛び込んだことなど、6月にイスラエルに着いたばかりの私にとって知る由もなかった。
 暫くすると向かいのマンションのシルバーステインさんが、猛烈な勢いで私のマンションのドアをノックし、大声で「ラレヘット・ハ・ミクラット(防空壕へ急げ)」と叫んでいた。