▶ 2013年12月号 目次
メディアの決意がみられない 〜特定秘密保護法への反対議論〜(上)西山事件と取材源の秘匿
加藤順一
一枚の写真がある。70年安保闘争が過激な様相を帯びていた1969年ごろの陸上自衛隊の暴徒鎮圧訓練の模様を記録した写真である。当時「治安出動訓練は一切していない」と防衛庁(当時)は国会では否定していた。火炎瓶、ゲバ棒、手製爆弾を使用した「過激派」の鎮圧を目的とした演習で、戦車の出動も計画されていた様子が残されている。
こうした写真は恐らく公開されたことは無いはずだ。「取材源の秘匿」を守らなくてはならずその入手先を明かすことはこれからも無い。今公表したのは取材源がすでに故人となっているからでもある。この記録は形式的にも「機密」だったのだろうと思う。まだ「防衛機密の指定」と言うワクもゆるかったのか。陸上自衛隊のある将校に取材したことがあるが「今我々がやっている訓練はスナイパーの養成だ。建物の脇から火炎瓶を投げてきた瞬間にその腕を確実に撃ち抜ける能力だ」と言っていた。
最初からオドロオドロしい話ではあるが、一線の新聞記者で、取材、執筆、掲載を通じてある種の「機密」の存在にかかわった者も少なくは無いはずだ。法的論理はともかく、こうした現実はその場に立った者でなければ理解できない、あえて写真を出したのは、現在のジャーナリストがどこまで「実質秘」に迫っているかを知りたい興味もあった。取材行為は今問題と成っている「特定秘密」であるか無いかを問われるまでもなく「地方公務員法違反」「国家公務員法違反」「刑事特別法違反」に限りなく近いことなのである。
個人的なことで、「今さらなにを言うか」と糾弾されるかもしれないが、「スクープ戦争」の中で日々の取材は「公務員法違反」の「そそのかし」にあたるのは当然だと思っていた。勿論犯意は無いし、理屈を言えばいかなる抵抗があろうと「国民の知る権利に奉仕する」ことが、記者としての生き方であると信じていたのもたしかである。この辺りは「西山事件」で「正当な取材活動の範囲を逸脱している」とした最高裁判決とやや趣きが異なる。
たとえ法廷侮辱罪で罰せられようと「取材源」について証言拒否をする美学にあこがれを持っていた。
取材源の秘匿は2006年の最高裁小法廷(上田豊判事)で明確に是認されていることでもあり、取材行為の正当性を論ずるまでもない基本的スタンスではないか。「西山事件」では、被告は機密文書を政治家に渡し情報源の発覚を招いたことは遺憾だ。
自らが安全な場所にいて,他を論ずるわけにはいかないこともジャーナリストの有り様ではないかと思っている。誤解される恐れもあるが、だからと言って現在論じられている「特定秘密保護法」を是としているわけでもない。報道の自由を守るには、それを妨げる「法」を越える意識を持つことがジャーナリストの理想もある。現在の「特定秘密保護法」への反対議論には、メディアの決意が見られない。反対論を説きながら、自らが出演している報道番組で「中立」を語るキャスターに不信がある。ある種の法的「特権」をジャーナリストに与えるべきだと言う感情的な風景論になってしまいかねないからだ。「国民に知らせるべきだ」と信じたなら、何の躊躇もなく「特定機密」にアクセスする意気込みと決意がジャーナリズムへの信頼を維持する唯一の有り様だと思う。(中へ続く〉
加藤順一(元毎日新聞記者)