▶ 2013年12月号 目次
メディアの決意がみられない 〜特定秘密保護法への反対議論〜(中)国家機密取材の現場
加藤順一
「機密」の多い警備・公安担当、防衛庁(当時)担当と言う記者生活を送ったことがある。特に「公安事件」では、「取材行為」と胸を張って論ずる以前の事態に何度もぶつかっている。我が国の「情報機関」と言えば「内閣調査室」「公安調査庁」「警視庁公安部」が三本の柱だろう。「公安警察」としては抜きんじているのはやはり警視庁公安部だろう。公安部の中で、「公安総務課」は、課長室以外部屋に入ることが出来なかった。課長はキャリア官僚であり、公安部の収集した各種情報がここに集中する。課長以外の要員の名前は一切知らされず、顔を見ることもない。当時は赤軍派など思わぬ過激派の出現で「爆弾事件」など特殊事件の指揮を執っていたが、後になって分かったが、「総務課」の主要な作業は「日本共産党」の監視だった。「赤旗」に掲載される「無署名論文」の分析が「機密」を示す赤い書類入れで課長の机の上にあったのを覚えている。翌日配達される共産党機関紙「赤旗日曜版」の早版が何気なく課長の机の上に置かれていることもあった。
取材はまず「総務課員」の住所、名前を知ることから始まった。廊下で「課長代理」がいつ課長室に入ったかを探ることも日常的な仕事だった。月に一回「公安部長」と、記者クラブ(七社会)の懇談会があった。テレビで参加出来たのはNHKだけだった。中身はすべてオフレコだったが、参考に出来るのは中国の「広州交易会」の日本企業の動きぐらいだった。こうした「情報統制」の壁を破るべき手段はほとんどなかった。赤軍派など過激派学生の動向は、公安調査庁のルートがあった。現在はオウムの監視機関だが、もともと同庁は法務省の管轄下で破防法適用団体の監視機関だった。目的は「共産党」の情報収集だった。
要員が少ないことや、捜査能力も制限があり、多くは「S」工作(スパイ)だった。過激派学生に多くの金が流れていた噂がたえなかった。
もう一つのルートが週刊誌のトップ屋集団だった。出版社系の週刊誌には、情報を「売る」トップ屋が多くいた。彼等は学生に金を流し、情報を得ていた。情報を金銭で売り買いする学生運動は消える運命にあった。その「ウラ」を取ることもできなかった。
取材行為と言うには恥じいるばかりだが、わずかなルートに頼って夕方から深夜にかけて公安部のキャリア官僚の自宅を訪ねて彼らの様子をうかがった。全てではないが一つの事例を記録しておきたい。共産同赤軍派の委員長が逮捕された。確か「爆発物取締法」容疑だったと思う。赤軍派は「大菩薩峠事件」で大量の逮捕者を出し、ほとんどが地下に潜った状態だった。委員長逮捕は小さい記事だった。ある日、公安部幹部から「委員長が転向した。落とした取り調官と会わせる。極秘だ」と誘いがあった。「転向」と言う言葉に魅かれ、密かに指定された場所に行くと幹部と転向させたと言う刑事がいた。食事付きの取材も初めてだった。刑事は「転向」のいきさつを詳しく話した。翌日朝刊の片隅に「赤軍派委員長転向」と言う珍しい記事が載った。この記事が大きな反響となった。「転向はうそだ」「公安当局のでっち上げ」と言うビラがまかれ、本社にデモが押し掛ける始末となった。
この種のリークでは「極秘」と判を押した書類を入手したことがある。この情報で「伊藤律・中国で死亡か」と言う記事を掲載し誤報したこともある。1年後に伊藤律氏が日本に帰国する事態に驚愕した。情報の強力な統制はその一方で、マスメディアが飛びつきやすいリークを生むことになる。権力はあらゆる手段でメディアをコントロールしようとするのだ。
なぜ、そうした危険な情報収集にジャーナリストが安易に加わるのか。現在の「特定秘密保護法」の議論で欠落しているメディア側の弱点を、をもう一度取材現場から積み上げた研究が欲しい。(下へ続く)
加藤順一(元毎日新聞記者)