▶ 2013年12月号 目次
1973年・第四次中東戦争体験記③-錯綜する情報の中で生きる術:長谷川進一先生に感謝!-
鶴木 眞
第4次中東戦争が始まった翌日、指導を受けていたヘブライ大学マスメディア研究所長のエリフ・カッツ教授に呼び出された。研究所では事務職員たちがトランジスタ・ラジオを身近に置いて、戦況報告に聴き耳をたてていた。私の姿を見て女子事務員が言った。「もうすぐイスラエル軍の華々しい戦果が報告されるわよ!私たちにはモシェ・ダヤン国防相が居るのだもの」。
ダヤン国防相(1915年5月-1981年10月)は、オスマン帝国支配下のパレスチナにユダヤ人が入植して創設したガリラヤ湖に近い「キブツ・デガニア・アレフ」で生まれた。1967年6月の「第3次中東戦争(6日戦争)」でイスラエルを目の覚めるような勝利に導いた「イスラエル生まれ」の参謀総長として「アイドル」であった。第二次世界大戦でオーストラリア第7歩兵師団に加わり、シリアでフランス・ヴィーシー政権軍と戦い、左眼を負傷し常に眼帯をつけていたので「片目のダヤン」と呼ばれていた。
話は飛ぶが、かつて慶應の新聞研(メディコムの前身)で「英字新聞購読」の授業を担当されていた長谷川進一先生(ジャパンタイムス取締役)は、「第3次中東戦争(6日戦争)」直後に会ったことがあるそうで、「独眼竜ダヤン」と呼んでいた。長谷川進一先生は、日本が1933年3月「国際連盟」を脱退した時に、日本の主席全権であった松岡洋右の秘書官としてジュネーブの会場に居た経歴や、1941年に締結された「日ソ中立条約」締結に際しても立ち会いスターリンに直接面会した経歴をもっていた。「時事新報」記者の経歴もあり、夏の新聞研の合宿にも顔を出してくれて、数多い体験談を披露してくれた元気のよい「スーパー老人」であった。異なる情報から真実を嗅ぎ取る術を教わったことは役だった。
私の指導教授エリフ・カッツ先生からは、事務所に毎日顔をだすように言われたが、日が経つにつれて街には暗い空気が漂うようになり、大学のキャンパスからは学生、事務員、教員にかかわらず、若い順に姿が見えなくなっていった。イスラエルは男性だけではなく、女性にも兵役の義務があり、高齢者は自警団に組織化されている。銃を所持して街路をパトロールする自警団も、兵役前の中高生が目につくようになって来た。イスラエルが苦境にたたされていることは、私のような傍観者の目にも明らかになって来た。ラジオやテレビの戦況ニュースも、イスラエル国防軍は反撃しているとだけ伝えるだけであった。私は、必死で情報集めにとりかかった。情報源はVOA, BBC, エジプト英語放送、イスラエル英語放送、イスラエルTV, レバノンTV, ヨルダンTVであった。
VOAは妨害電波のせいか受信が一定でなかった。エジプト放送は、軍の先鋒隊はガザを越えてテルアビブが見下ろせる丘に到達したと繰り返していた。一方、イスラエル放送は、ゴラン高原戦線でもシナイ半島戦線でも、アラブ側の侵攻は完全に食い止められ、全面的な反撃に移ったと繰り返していた。BBCは、アラブ側とイスラエル側の声明や発表を引用するだけで独自の情報を伝えることは一切なかった。この状況を私はどのように読み解くべきか、結論は戦線の硬直であった。イスラエルは存亡の狭間をさまよっていたのである。
鶴木 眞 綱町三田会会員(東大名誉教授)
※写真はモーシェ・ダヤン(モーシュ・ダイアン, משה דיין, Moshe Dayan)
ウィキペディア掲載写真にリンクしています。