▶ 2014年1月号 目次
北朝鮮 粛清の歴史からみた張成沢事件
畑山康幸
北朝鮮では12月8日、朝鮮労働党政治局拡大会議が開かれ張成沢国防委員会副委員長(党行政部長)を「反党反革命的宗派行為」ですべての職務から解任し党から除名することを決めた。また12日に開かれた国家安全保衛部特別軍事裁判では「国家転覆陰謀行為」の罪で死刑判決が下され即時執行されたと伝えられている。北朝鮮が会議場から張成沢を連行する写真や裁判でのうなだれた姿を公開したことも内外に大きな衝撃を与えた。
北朝鮮では政治的に対立した人物が粛清されるという事例は何度も起きている。昨年、金日成生誕100周年にあわせて出版された『偉大な首領金日成同志略伝』(朝鮮労働党出版社)は金日成の生涯を党歴史研究所が編纂した最新の伝記である。『略伝』では「金日成同志の革命活動の歴史は宗派主義に反対し党の統一団結のための闘争の歴史」と述べている。
張成沢と同様に、金日成によって「反党反革命宗派分子」と断罪された前例としては、1956年に起きた「八月宗派事件」がある。
「八月宗派事件」は金日成にとって朝鮮戦争停戦後に迎えた最大の危機であった。『略伝』には、「反党反革命宗派分子」らは1956年の金日成の東欧訪問を機に「反革命的武装暴動陰謀をめぐらし・・・党と政府を転覆させ反革命政権をうちたて」ようとしたとある。金日成は同年8月に党中央委員会全員会議を招集した。この会議では「政府代表団の外国訪問結果とわが党の当面するいくつかの課業」が討議されることになっていた。ところが、「崔昌益をはじめとする反党反革命宗派分子らは党の経済路線がどうの、人民生活がどうのと・・・党を攻撃した。・・・会議参加者は・・・宗派分子の罪行を暴露批判し」、「宗派分子らを党から除去する断固たる措置をとった」というのが『略伝』が描く事件の概要である。しかし『略伝』には、ソ連共産党第20回大会におけるスターリン批判が北朝鮮に飛び火し、金日成の個人崇拝をめぐってするどく対立した事実は書かれていない。
旧ソ連出身の北朝鮮現代史の研究者アンドレイ・ランコフは事件の本質を「脱スターリ主義の失敗」と指摘している。(《Crisis In North Korea:The Failure Of De-Stalinization,1956》2004 日本語訳未刊)。
事件から1年半後の1958年3月、朝鮮労働党代表者会が開かれた。代表者会では「思想教化事業を強化する」ことが決められたとされている。北朝鮮における「スターリン主義」は温存され、むしろ金日成の個人崇拝は強化されたのである。
これ以後、北朝鮮では党があらゆる機関を指導・統制する国家社会主義体制が構築された。1959年には消極主義を克服し生産を向上させようという「千里馬運動」が始まった。これは労働者に過酷な労働をしいる北朝鮮版「スタハノフ運動」であった。外交面でも中ソから距離をおくようになった。
さらに1960年代には金日成思想が「唯一思想」とされ個人独裁が強化された。後継者となった金正日は1974年から「全社会の金日成主義化」を推進した。これによって北朝鮮は金日成主義を教義とする宗教性を帯びた国家に変質したのである。「八月宗派事件」はこうした北朝鮮の「全社会の金日成主義化」=金日成神格化、絶対化につながる原点なのである。
2012年4月、金正恩第1書記は「朝鮮労働党は・・・金日成、金正日の党」であり、「指導思想は金日成-金正日主義である」と述べた。また「全社会の金日成-金正日主義化」が党の最高綱領であり、金正恩自身の絶対権力を担保する「党の唯一的領導体系」を打ち立てることを宣言した。こうした方針は北朝鮮が、すべての人民に「金日成-金正日主義」への帰依を求め、金正恩の「唯一的領導」に従うことを定めた宗教的絶対王朝であることを示している。金正恩第1書記は「金日成-金正日主義」を教義とする党・国家の絶対権力者であり三代目教祖でもある。
張成沢が「反党反革命宗派分子」とされたのは、改革開放を志向し中国との関係を深め利権を手にしたこともさることながら、北朝鮮の“国体”の中核をなす「金日成-金正日主義化」、「唯一的領導」に挑戦したためである。
「八月宗派事件」では一応の決着までに1年半を要した。しかしその後も最高指導者に対する絶対化が進められた。今回の「張成沢粛清事件」も、処刑をもってすべてが終わったわけではない。張成沢周辺や市場経済化にかかわったすべての人々に対する思想点検という名の金正恩へのさらなる忠誠を求める大きな嵐が近づいているようである。
畑山康幸(東アジア現代文化研究センター代表)